三回目の台湾渡航記

 謝元輔氏を訪ねて以来、私は謝氏に頼まれ、日本の生物の本を多数購入して、それを師範大学の彼の元に送っていた(彼はそれを教材に利用していたのであろう)。そういう関係上、謝氏とはいつも通信していたので、三回目の渡航時にも謝氏の紹介で同じ師範大学の教授宅に部屋を借りて住むことができた。そこは和平東絡二段にあり、現在の師専附小というバスの停留所で降り、進行方向の右側にあった。平屋の師範大学の教授等の宿舎であり、台湾大学と比べてかなりマシであった。ここもその後に取り壊されてその少し後の方にマンションとなり、彼等教授宅となっている。台北車站へ行くにはいつも十五、十八、三号のバスで、今はないが五十五号のバスを利用していたものだ。
 その後、同じ通りで復興南路二段を越え、和平東路三段にある台北師専(現在では省北師院と申す)の向かい側にある成功新村の外省人の軍人の家で下宿をした。奥さんは本省の台湾人であった。風呂はいつもバスに乗り羅斯福路と和平東路一段の和平西路よりに風呂屋があり、食事はいつも外で食べていた。

 この時には、陳老師は復興北路近く南京東路よりの小道のマンションの二階に居られた。そばの道にはボウリング場があった。そこで陳老師と会った時、その場に翁榮昌氏が居られた。翁氏は台湾の人で、銀行員であった。日本教育を受けていたので日本語もペラペラであった。戦後も日本の本が好きでしょっちゅう見ていたとの事で、そうしないと忘れるからだと仰っていた。翁氏は台湾の某一流大学の法律科出身であり、そこの卒業生と言えば必ず裁判官になるものであるが、翁氏は変わり者で銀行勤めをしていた。
 この翁氏は陳老師に紫微斗数を習って習得していた。翁氏は私の紫微斗数の盤を作り、あなたの家は周りより少し低くなっていると言い当てた。また、家の左には木があると申した。確かに玄関を出て家の左には隣の家の大きな木が植えてあった。更に、木があったとして、もしもある星が来る場合は「その木は切り倒された」と判断すると教わった。

 翁氏は陳老師より伝授を受けた際の様々な資料を私に授けて下さった。翁氏が申すには、陳老師は人に教えることを亀が甲羅を剥がされるように嫌い、中々教えてもらえなかったので、度々老師に酒を振る舞い、適当に酔わせてから書かせたという文書も中にはあるそうで、それらの資料をも私に授けて下さったのである。
 翁氏が申すに、陳老師との出会いの時に、翁さんは友達と待ち合わせをしており、その時に陳老師は翁氏に「あなたの友人はこの席に座る」と申され、実際に友人はその席に座ったのでビックリしたと申された。因みにこれは奇門遁甲で見たものである。
 翁氏は日本贔屓であり、私は当時中国語はダメであったので、かなり翁氏のお世話になった。翁氏の仕事は銀行の調査係であり、いつも台湾各地の支店に出張し、その帳簿を見て検査をしておられた。延平南路に来ている間は仕事時間であっても良く外に出て、自分の時間に使っておられた。

 ある時、陳老師の所で授業を受けていると、その場に翁氏も居たが、一人の人物が部下を連れて陳老師に会いに来た。その人物は趙文聞氏であり、翁氏と同じ銀行の人事課におられた。翁氏のいる銀行の道一つ手前が彼のいる所で役目もかなり上のお人であった。当然翁氏と趙氏とは知り合いであった。
 この趙氏は最初に「外丹功」の本を出した人である。この本の奥付は「健康快楽外丹功、五行通臂拳叢書之二、一九七六年十二月二十五日初版、中華書局總経銷、天津・張志通著、瑞安・趙文聞輯」となっているが、これは実際には趙氏の書いた物である。その中で演示している写真の女性は彼の奥さんであり、瑞安出身の趙余宇芳女史である。この余宇芳さんは明の時代の名軍師、劉伯温の子孫であった。

 後に外丹功に関する本や雑誌は重慶南路にあるこの中華書局に置いてあったが、この本屋はいつのまにか無くなっていて別の店になっていた。次に来た時にその当時絶版本の五行通臂拳の本をいただいた。そして新生南路二段一〇三巷三十九号の場所に夜に来るように申しつけられた。教えられたその場所に行くとそこは張志通氏の宅であり、そのわりと大きな地下で弟子達に五行通臂拳・外丹功及び内丹功を教えておられ、私はそこで張志通氏に紹介されて、外丹功を日本人としては初めて習った。
 最初に私が習った時と比べて、今のものは少し型が変わっていると感じる次第である。予備式よりすぐに体が動いたので皆はビックリし、張志通老師より「福気がある」とお褒めのお言葉をいただいた。要するに素質があるという意味であり、こういう事をする場合には特に福気がないとダメであり、成就しないし、又やめてしまうのである。

 今回来た折り、景美にある武壇を尋ねたが、出ているはずの看板が無かった。どうしたものかと思ったが、前回に蘇晃彰氏に名刺を頂いていたので、そこを尋ねてみた。中正橋又は華中橋を越えると、そこは永和又は中和であり、その辺りをかなり探し聞きまくった。人に教えられてやっと蘇氏の家が見つかった。用件を申すと蘇氏はすでに海外へ出国しておられ、台湾にはすでにおられなかった。その家は奥さんの実家であり、奥さんと御両親がおられた。両親は台湾の御方であり、日本語が出来た。蘇氏が船に乗っている写真や、外人相手に教えている写真を見せていただいた。奥さんは私に何をやっているのかと聞くので、占いを習っていますと答えると、私の運命を占ってくれないのかと申された。その当時の事として、「私は夫運が良くないのではあるまいか」とのお話であった。

 さて武壇が無くなってしまったのではないかと私が申すと、奥さんは電話をかけて下さり、自分について来るように言い、二人でタクシーに乗り込んだ。そして着いた所が劉雲樵老師の自宅であった。劉老師は趙聞起氏とも知り合いであり、外丹功の本の中でも達筆で序文を書いておられる。劉老師とその奥さん共に家におられた。奥さんは大陸の外省の人であった。そこで武壇の事をお尋ねすると、もと武壇のあった場所より横道の所にあり、そこはもと劉老師が住んでおられた場所であった。そこには日本人数人がいて、現在の「日本武壇」のO氏(前出の陳老師の弟子のO氏とは別の人物)等もいた。彼だけが国語(北京語の事)を話していて、あとの人はほんの片言であった。彼等はここの常連であり、半年ごとに台湾に武壇に武術を習いに来ていた。私はここで半年間、陳家太極拳老架式を学んだ。

 住んでいた所より復興南路側のバスに乗り込み、辛亥路を通り、そのトンネルを越えていくとそこはお墓ばかりであった。何でもそのトンネルは霊現象が頻繁に起るというが、私は当時全然出くわした事はなかった。そしてかなりの距離をバスに乗り、羅斯福路六段にある景美に着く。角に警察の派出所があり、そこで降りると一枚だけ切符を切られるが、次の駅の武壇よりだと切符は二枚切られるので、ここから歩いてもすぐの所なのでいつも手前で降りていた。そして武壇のある道を少し歩くとそこは夜市(夜店)があり、毎日にぎやかで、そこでいつも食事を取っていた。

 武壇では人に教えているのはだいたい大学の学生達であった。又しょっちゅう外人達も入れ変わり立ち代わり武術を習いに来ていた。最初の一ケ月で老架式を習い習得したが、その人が用事が出来たとの事で、別の同じ師範大学の学生を紹介され、その人にも学んだ。すると型が違うのでその事を聞くと、こっちの方が本物であると言われた。確かに一ケ月位で習って去る外人には、私が最初に習った型のを教えていた。そして又発勁の仕方をも学んだが、或る時に張志通氏の所に行った折り、武壇で習った陳家太極拳の型をお見せした所、とぎてれている、それではダメだと申され、太極拳の型を少し演武して見せて下さった。五行通臂拳の中にも太極拳六十八式がある。

 武壇ではやはり老師達がすでに皆出国しておられ、教えているのは弟子達ばかりでたよりなく、又余りにも外人なれしていて、ほおっておいてもいつも人が来ると言った具合で、要するに本気で教える気がないのであった。また私は話が出来るので、一人の教練が「聞く所によると、O氏は家が宝石屋をしているのか?」と私に聞いてきた。私は当然彼等とは全然つきあっていないし、わからないのでなぜかと聞くと、良くいつもいつも来て金が続く物だと感心していた。半年間この武壇で陳家太極拳を学んだが、実の所、ムダであった。

 私は最初は台湾に滞在する事数ヶ月より半年、そして日本にいる期間よりも台湾に長期滞在する期間の方が長くなってゆき、青年時代は東南アジアで過ごした方が多く、三十頃よりは南洋方面にも行き出した。そして成功新村に住んでいた所より、師範大学宿舎のマンションが完成されたので、私はそこに移り住んだ。その一階は謝元輔先生宅であり、二階は蔵広恩教授宅であるが、蔵先生は息子さんが居られるアメリカに移り住んでいた。蔵先生の奥さんが居られた。この人は北京の出身であり、手相が見れるお人であった。部屋は居間があり、三部屋であり、私は一室を借りていた。風呂もわざわざバスに乗って行く必要もなくなり、洗濯物も洗濯板でゴシゴシやる必要もなくなり、洗濯機も使わせていただいた。奥さんは時々アメリカに行かれ、又ある時より奥さんの姉さんも住むようになった。