中国の符咒ー体験入門記

年月日

この記事は雑誌「日本神学」に掲載されていたものです。


法師公の法門について
竹川文男

 私が台湾の高雄で占術の勉強をしていた頃、ふとしたキッカケで羅日東さんと知り合った。私の老師である師が高雄市内の四維一路で算命館を開いておられた折、或る晩のこと、羅さんと林さん、それにもう一人若い人であったが、その三人連れで来られて、私の先生に地理のことについて質問を浴びせていた。その内、羅さんが私に向って話かけてきた。

 羅さんは、台湾に帰られる前は香港で日本人観光客相手のガイドをしていたといい、また戦時中は日本にもいたことがあるという。だから、ひどく親日的で、日本及び日本人のこともよく分っておられた。

 その時、私も学生を募集していた。日本の鎮魂、念力、術とかを教えていたので、羅さんは早速入門された。羅さんの奥さんは霊媒(中国では童乩、タンキーと称する)ができる人で、神様を呼ぶとすぐに霊動が起り、体をガタガタと動かして、そして喋り出す。

 羅さんは、それよりも前に、高雄よりズーッと南に当る潮州という所におられる蔡先生に就いて修行しておられた。<法師公>という符咒の門派で、その学生は全台湾に散っていた。

 蔡先生の老師は、大陸の広東省より来られた人でかなり術が出来たそうである。羅さんの紹介で私も潮州へ行くことになり、オートバイの後に乗せて貰って約一時間、蔡先生の本拠地である潮州の道明壇に到着した。中国では日本でいう神社を<廟>とか<壇>とか申すのである。

 蔡先生は約六十歳位の人で、日本人精神の固まりのような人であった。軍隊当時はどんなであったとか、昔話を懐しそうに喋り出し、古い歌も次から次へとポンポン飛び出してきた。

 先生は符咒以外に地理・算命もやられ、薬にも大分詳しい。又、よくお墓の鑑定にも行くらしい。中国では特にこの風水(墓想)を重要視し、一般人の間でもかなり信じられている。

 蔡先生は私に見込があると思われたのか、法師公門派の印であるバッジを私に下さった。これは入門していない者には決して渡さないもので、蔡先生、羅さんからもそう言われた。行ったときはもう時間がなかったので、又来年の約束をしてお別れすることにし、羅さんと一緒に高雄へと帰った。

 翌くる年、約束通り台湾に来たが、ずーっと台北に住んでいたので、仲々高雄へは行けなかったが、蔡先生より十月に関を開くという便りである。この関というのは、一関より七関まであり、一関は一週間で、七関では四十九日だ。

 この関の開かれている期間中に魚肉等を食べず、又男女関係もよろしくない。只、ひたすら精進潔斎に励むわけで、それによって神霊との交通ができるのである。汚れた身ではどうして純粋な気である神霊と交通できようか。

 このたび関の開かれる場所は、高雄からもう少し離れた所にある新築の家で、汪さんの家であった。台北より高雄の羅さんの所まで行って暫くすると、蔡先生が来られたので、三人で出かけることになった。高雄市に五福四路という賑やかな通りがあり、此所の通りのビル四階にある会社に、汪さんは勤めている。

 そこできょさん、顔さん等の紹介があった。許さんはこの船会社での董事長で、所謂社長であるが、顔さんは台北に本店がある会社から代理として此所に来られ、この三人とも蔡先生の弟子であり、七関までの全部を終えた人達なのであった。

 教師となるためには七関までやらないと駄目なのであった。今度の関の主役は顔さんで、蔡先生が副役を勤めるという。そこでわれわれ五人が一緒に汪さんの家まで行くことになった。

 関は夜から開かれるので、その間に準備をしなければならない。専ら私の役は霊符を書いて符胆に入れることであった。規定としては一人分・一回につき三十六枚の霊符を書いて、それを焚いて水で飲むのであるが、これを<大符>と称し、これが通霊する重要なポイントとなるのである。

 最初は来る人数も少かつたが、第一、二、三と経つにつれて人数も多くなり、朝から晩までずーっと霊符を書き通しで参ってしまった。最もこれがその者にとってはよい結果を齎らすのであるのだが。

 来られる人も、高雄は勿論、台南・台北まで様々であった。皆、熱心な人達であり、人数も合計三十人位になったであろうか。老若男女とりどりで、小学校の小さい子供までが参加している。

 関を開いて主役の顔さんが祝詞を唱えたり、又咒文を唱えたりするのだが、台湾に永く住んでいる外省人(大陸から来た貴人)でも、殆んど台湾語はできない程である。そして日本語の分る五十歳代の台湾人は、この北京語が上手ではない。或る台湾の人で、北京語の全然分らないという人に再三出会ったことがある。

 例えば、「食事」は北京語で吃飯、ツーファンだが、台湾語でチャポンと申し、「ありません」が漢字で書くと没有、メイイォウで、台湾語ではポーラになるので、全く以て異なるわけなのだ。

 さて、五日目か六日目のことであつたと思う。例の如く顔さんが何やら喋っていたが、その時は十月だというのに高雄ではまだ暑く、それに神壇のある部屋は線香の煙ですぐ一杯になり、どうにもこうにも苦しくなってきた。そこで精神統一を図り、無念無想になってみた。

 その時、私は最前列に並んでいたのだが、森先生は誰かを頻りに探している。誰を探しているのかと思っていたが、私の肩越しに来てまでキョロキョロと見廻しているのだ。出口の所まで行ってまだ探している。そのうちに大分気持が落ちついてきたので、一種の精神状態を解くと、蔡先生が驚いた様子で、すぐ私に話かけてきた。

 そしてその夜、儀式は終ったのであるが、終ってから蔡先生が申すのには、私が全然見えなかったというのである。幾ら探しても分らなかったという。どうしても見つからなかったので、多分下にいてこの儀式には参加しなかったのであろう、ガッカリしたと言われたのであった。私は全く姿を消すようなことはしなかったが、ともかく自分の意識をなくしている間に、そのようなことが起ったわけである。

 聞くと、先生の若いときにも同じようなことがあったということである。又、大陸より来られた老師は、この隠形術(透明人間)が出来たということで、歩いていて急に姿が見えなくなり、別の所に出現したということであった。

 法主公の法門で最高の術は何ですかと聞いた処、<隠形術>と<雪が降っても全然身にかからぬ法>だという。だが、これらは至難の技らしい。この隠形が出来たという人は、その後あちこちでも聞く。大陸ではかなりいたらしいのだ。この隠形術には、薬を使ったり、術を使ったり、或る物を食べたり、又は方位を使ったりといういろいろの方法がある。この<方位>を使うのは<奇門遁甲>であるから、要するに、これは地磁気の応用である。

 さて最後の夜は、上半身裸になり、丁度金太郎のような腹掛(?)を着けるが、これは赤い布で一杯に霊符が書き込んである。これを<腰符>と呼び、更に腕にも霊符を書き込んだ赤い布を巻きつけ、押印した扇子を腰に挟み、全員がこの姿になる。これに先立ち、前夜から両手、胸、背中にも霊符を書く。

 さて儀式が終って、次に、神が身に宿った証拠として、刀で体に切りつける。物理的には切れる筈だが切れないのだ。この法術はどうやら義和団から来たらしく、昔の義和団でもこういうことはやっていた。最初はオッカナビックリであったが、成る程、やってみたら何ともなかった。

 或る若い女の子が手ぬるいと思ったのか、顔さんが自分で持ってぶち当てたので、女の子は急に泣き出してしまった。見るとアザが出来ている。そこで女の子に対し、「翌日になると血が出てくるよ」と、冗談半分に驚かしてやったことがあったのである。

 この法師公の法門は<天和堂>と称して、日本人では私一人が最初の入門者であった。

 大陸より台湾に来られた老師は陳吉安先生と称して、原籍は広東省潮州の人であり、その原籍地は地号が黄牛山、黄牛洞、そこで道を学ばれた。法師公が教主で、王老仙師を門下生とする。

 日本が台湾を統治していた頃に来られて、初めは台南で布教されていたが、山医を葉となし、全島を巡り民情・宗教を巡察された上、もとの潮州に帰られて、又再びやって来られた。

 この二回目の時には台南近郊の人達数十人を門下生となし、館を開いて教えを伝えていったのであるが、その後は宗教上のことで日本人に検挙され、強制的にもとの所へ還されてしまった。時に昭和十二年のことであり、今に至るまで音信は途絶えて不明になっている。

 祭神としては次の如く多くの神々が祭られているので、茲に列挙して置く。

大顕威霊

修文童子
呂山童児孩子 千里眼
崑崙法師
五遁仙法師
銅皮鉄骨仙師
九天玄女娘娘
張大祖師
太上李老君
○王老仙法師
西天如来仏祖
黄道老仙師
日月祖師
五雷大将軍
呂山祖師 順風耳
白鶴童子
習武将軍

 王老仙法師を主祭神として、左右にそれぞれの神が祭られているが、この王老仙法師は王母娘々(九天玄女とも称し西王母のこと、九天の道法は尽くこの西王母が主どっており、日本では大国主命の后神・須勢理姫命)の兄に当るもので、王老仙法師はこの教の教主になっている。又、それぞれの神に対する霊符と咒文とがある。

 前述の林さんもこの法師公の法門の人であるが、この法門以外にも別の法を修しておられる。林さんは若い時からこういうのを好きだったそうで、以前は台東にいる外省人に就いて医薬・符咒を学習せられた。聞くと今はこの老師も百歳近くであるが、まだまだ元気であるとか。羅さんと林さんとは特別の友人関係にあり、それで林さんが羅さんに渡した貴重な符咒・薬についての秘伝書を、私も羅さんの好意によって写させて頂くことができた。

 林さんは風水師であり、毎日忙しい日々を送っておられ、姓名学でもズバ抜けていて、お弟子さんも四~五人はいるという。その習得された符咒の中には色々と邪術もあり、又毒薬の作り方もあったが、この毒薬の作製法は全台湾でも知っている者は極く僅かで、三人位しかいないという貴重なものであった。

 例えば、薬を爪の間に入れて、爪でチョット相手の皮膚を傷つけると、そこから薬が浸透して相手を死に至らしめるといった具合だ。又、薬粉を相手に撒くと立所にその者は気を失うか、全身の力を無くするというものもあり、武術方面でも薬功といってこの薬を専門に使うのがいたり、日本の忍者等でもこの毒薬の研究が大分発達していたという。

 この毒薬法にも天方改薬、地方改薬、元方改薬粉、皇方改薬帖、脱肉丹、大烈火、小烈火、蝦蟆丹、四水流散、銷喉丹、小飛砂、迷魂丹、英雄散塊等の多くのものがある。

 邪術は人を害する術であり、黒影法というものなどは、霊符を書いて咒文を唱えてこれを部屋の中に置いておくと、その部屋にいつも陰霊が出現するという。銅針狗血殺人法、針鶏血殺人法などもあり、脚痛法というのは、相手の靴を以て或る作法をすれば、その者の足が痛くなるという。

 林さんから直接教わった法に印を結んで、咒を唱えて印を相手に向って打ち込めば、その者は直ちに気が可怪しくなるといった、簡単でまた効力絶大なものもある。

 一例として、林さんの使用する霊符の内、<保生太帝>という医に関する神仙の法術があり、民衆より痛く信仰されているものである。

 台湾ではこの邪法を専門に使うのがいて、人々から非常に怖れられている。誰しもそんな便利な術を覚えて楽をしようと思うのだが、仲々うまく行かないという不文律があって、咒法を伝えないものである。理由の第一は、習う人の品行が大きな要素となり、第二は天地の神々に誓いを立てねばならないからである。そんな約束事は構うものかという人も出てくると思うが、仲々どうして怖しいものである。その誓いの方法について書いてみるとしよう。

 まず術を習得するのに先立ち、天地の神々に向って誓いの言葉を述べた後、三つの茶碗を予め飯を盛って供えて置く。茶碗の底にはそれぞれに孤・貧・夭と書き込んである。

 誓いを終った後、三つの茶碗の中で自分の希望する孤・貧・夭の三つの内、一つを選んで茶碗の飯を便所の中へ捨てる。この誓いの儀式の後に、初めて咒法を教えて貰えるのである。この誓いをしたら絶対に食いはぐれはしないが、孤独・貧乏・夭折は免れ得ない。この場合は大抵、邪の咒法に限られているものである。

 或る符法師は妻もいたが、子供が生れては直ぐに夭折するので、私は不思議に思っていた所、その後奥さんが又お産をした。男の子だったので奥さんは大変な喜びようであった。

 その符法師と食事をしに行ったとき、「今度生れた子供は又死ぬよ」と淋しそうにいうので、大変不思議に思ったのであるが、訳を訊くのもどうかと思ったのでそのまにした。今度、又台湾に旅行した折、またその人と逢ったが、依然として子供はできないとの話であった。屹度、誓いを立てて咒法を学んだものであろう。

 それについて、私の友人が大変この人を憎んでいて、一時はこの人に決闘を申し込むほどの意気込みであったが、この人の摩訶不思議な雰囲気に対し、周囲の人達から留められたそうである。

 決闘の理由は、友人が女をつくり、それがため奥さんとうまく行かず、奥さんが符法師に頼んでその女に何かしたらしく、時々意識が不明になるとのことであった。そのため友人は大変怒り、決闘を挑むつもりであったが、それは実現しなかったのである。

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