二回目の台湾渡航記

 日本に帰ってから黄氏に言われた通りに台湾の陳老師宛に国際郵便を出すと、果たして返事が帰って来た。
 それ以前に、私は仙学雑誌にも載っている藏広恩氏に手紙を送った事があった。藏氏は東京に住んでおられたが、当時は京都の某大学の教授をされていたので、京都の河原町丸田町にある中華料理店で待ち合わせをした。藏氏は私が余りにも若かったので驚いておられた。そして陳老師の手紙をお見せし「今度台湾に行ったおり、どんな人物か会って確かめてくれませんか」とお願い申し上げた。
 藏教授は日本に来る前、台湾の師範大学にもおられた事があり、謝元輔とは旧知の間柄であった。藏氏は中国の東北地方出身であり、謝氏も又大陸の南方出身であり、どちらも日本留学経験があった。大陸出身で日本語の出来る人は日本留学経験があると思って良いであろう。
 後日、藏先生より陳老師の人物評をお聞きすることができた。会っても良さそうな人物とのことであった。

 この意見を聞き、二回目の台湾渡航時、陳老師を訪ねてみることにした。台北に着き教えられた住所に行くと、老師は既に引っ越しておられた。転居先として教えられた住所に行くと、そこは陳老師に師事しているO氏の家であった。そこで待っていると我が陳老師が来られた。そこで私は奇門遁甲を習いたいと申し出た。
 陳老師は河南省出身であり日本語は分からなかった。O氏の父親は台湾人で日本教育を受けていたので、通訳をすることになった。その時私は謝氏に紹介してもらった彼の親戚の家に下宿しており、毎日景美にあるO氏の家まで授業を受けに行った。陳老師が私のノートに講義内容を書き、それをO氏の父親が翻訳すると言った具合であった。傍らにはO氏もいて、それを自分のノートにちゃっかり書き写していた。
 伝授が終わった時、O氏の父親は私に翻訳料を要求してきた。自分の息子が人のノートを勝手に書き写しておきながら、それはないだろうと思ったが、仕方なく黙って渡した。いくばくか渡すと大喜びで「謝々、謝々」の連発であった。
 この時は陳老師からは余り教えてもらえなかったので、その原因をO氏に尋ねてみた。また色々な占術、鉄板神数、地理風水、奇門遁甲などの伝授料の事も聞いたところ、かなり高額の値段であった。

 陳老師の教授方法は一対一であり、教室などのように大勢の人間を相手にして教えるのではなく、先生が喋るのを弟子がノートに取るといった具合であった。私の場合は中国語は聞いても分からなかったが、その頃は漢文をやっていた関係上、読んで理解はできたので、老師は私のノートに講義内容を書いて下さった。老師が何の本を見るまでもなくスラスラと書いていったのには驚かされた。老師が申すには紙に残して置くと人に見られ盗まれたりする事があるが、自分の頭の中に入れて置けば盗まれないとの事であった。

 このように本当の口伝と申す物は昔より決して書物には残さず、すべて口伝で伝えられて来たのである。現在では占いの本は台湾でも多く出ているが、本物や奥伝のものは決して出されないのである。また、以前より台湾では著作権は有って無きが如しであり、本を出せばすぐに同じ内容の海賊版で出る始末である。だから本物や奥伝の本など出版することはない。
 運命学が日本で思っている以上に高額であることは、その時私の知らなかった事である。普通、日本では機械や電化製品は安いが、東南アジアでは高い。逆に、職人仕事は日本では高いが、東南アジアでは安い。すべて何でも東南アジアでは安いと思うのは間違いである。占いや武術、符咒などは拝師をする場合かなりの金を払わなければならないのが向こうの常識なのである。
 余談だが、後にこのO氏は老師の許しもなく勝手に資料を持ち出したため、老師に訴たえられ裁判沙汰になった事がある。

 二回目の渡航時にはまだ時間が少しあったので、中国武術で有名な武壇を訪れた。武壇は景美の当時羅斯福路側にあった。少し待っているとそこに蘇晃彰氏が弟子を引き連れて現れた。蘇氏は何を習いたいのかお聞きになられた。また私は松田隆知氏が出した陳家太極拳の本に載っていた型をお見せした。すると蘇氏は弟子の一人に陳家太極拳を少し演武させた。本の内容とはかなり違っていたのが感想であった。蘇氏は二、三ケ月でも良いから教えると申されたが、この時は時間がなくて習えなかった。又当時、「武壇」という雑誌の合訂本二冊が出されていたので購入した。資金が続かなくなり、その雑誌はそれ以上は出せないとも申されていた。そして蘇氏の名刺をいただいた。それから、蘇氏は弟子を相手にに少し組み手の練習をし、足払いをして倒した。その後、別の武術社に教えに行くと言って出ていかれた。

武壇の外観

武壇の外観