実録阿部晴明
意地悪の黄金仏
越後国(今の新潟、富山、石川、福井県)刈羽郡上小国村に中橋という旧家があった。安倍晴明の後胤(子孫)で、明治維新前まで姓も安倍と呼ばれ、屋敷の一隅に現に晴明の古墳(古い墓)も存じ、土地の人は安倍屋敷の名を以て尊敬を払っている。
奇妙なことには、此の中橋家では祖先依頼、大抵一代ずつ、男児に限り肛門と睾丸との中ほどに指頭大の瘤のような隆起が生じているが、これに晴明の塚の土を採って塗ると数日後に消滅する不思議がある。
目下東京へ来て実業に従事中の同家の次男秀高君は、この事あった人で、氏の父親にはなし、その先代にはあったと云うが、同家の人にして此の臀部の贅肉のある者は、決まったように、一生涯の運命が常人と異なるのだが、それは、同家の秘仏に関係があると見做されている。
同家の秘伝とは、今から約一千二十年ほど前に、先祖の晴明が支那から土産に持帰った黄金の阿彌陀如来である。これは身長が一尺五寸余(約四十五センチ)、重量が約三貫(十一・五キロ)で、時価二十五万円と評価されていたものだが、先祖以来、とても霊験が著しいので、常に二重の厨子(神仏の像を安置する両扉の箱)に厳重にして納めて仏壇の一方に据えられてあるが、時として仏像が独りで厨子の外へ出て行衛を晦ますことがある。
その時にはいくら捜索しても所在が判るということが無いが、日を経てから偶然に意外な場所から発見されて中橋家へ納まるのが例である。何のためにこの仏像が雲隠れをするかと云うことも判然と知るよしもないが、何か不機嫌の事があるか或いは中橋家に不吉が萌したかの場合に発生すると想はれる。
また尚一個の不思議がある仏像を抱き上げて振ると、胴の中からリリリーンと美妙極まる金属的な鳴音が発し、余音裊々(音声が長くひいてきえないさま)として人の心耳を澄ましめるが、他家の人間が振っては、どんなに努力をしてもこの胴鳴りが発生しない。種も仕掛けもあるのではないから、仏体には活人的な魂が入っていると言われている。
明治二十四年に、仏像が厨子から姿を隠したことがあるが、二年目の或る夜、大雨が降り、翌朝早く主人の佐吉が裏口から出て邸の横を流れる澁海川の端へ下りて顔を洗いかけた。
不図見ると、昨夜の出水で、河の中へ新たに州が寄っていて、その砂の中から一道の光輝が立っている。異しく念ってその州のところへ寄って行き、光輝の出ているところの砂を二尺(六十センチ)ばかりの深さに掻散らして見ると、秘仏が横たはっていた。佐吉は抱へ上げて有頂天に我が家へ馳戻り、仏壇へ納めて狂喜した。
翌日は村内へ赤飯を配り、村民の拝礼を許すと、大勢が殺到して拝んだが、六歳になる二男の秀高が茶目ぶりを発揮し仏像を抱へ上げて旺んに振って胴鳴りをさせた。その鳴る度毎に村民が額をタタミにつけて、南無阿弥陀仏と唱へ随喜渇仰(熱心に信仰する)の涙を流した。
それが面白いので、茶目坊は振った振った鳴らした鳴らした。これこれもう止せもう止せ、仏さまがご立腹なさるといけないとて制止をした。すると胴鳴りがパタリとやんでしまって、どんなに振っても鳴らなかった。
黄金仏が現われ回ったので、近年下り坂となっていた中橋家は家運が回復するだろうと期待をされたのに、新規事業に手を出して損失続き、おまけに悪漢の食い物になって刑事事件を引き起こすなど、散々に家名を汚すことが続出したため、戸主は祖先以来の邸宅敷地を他人の手に渡して他国へ流寓(他国他郷にさすらい住む)する事になったが、黄金仏をお連れ申すは畏れ多いとて、県下の西頸城郡の名刹(由緒のある有名な寺)である関山村の関山寺に預けてから郷里を見捨てて、一家族を率いて関東諸国へ漂浪の身となったが資産を整理して二万数千円を懐にしていたので、何所か住心地の好い土地を見つけたいとて、前後七年間、各地を急がず旅して、漸く群馬県の澁川町に居を定め、造酒業を営みだした。
中橋家は、諸国浪々の間、一度も関山寺へ消息を通じなかったが、その内に関山寺の住職も代替りをして、後住の僧は強欲人であったから、中橋家の所在の知れぬを幸いに、黄金仏を勝手に運び出し、越中加賀越前をふりだしに、名古屋へまで開帳をして大いに賽銭を掻き集めたが、それに関係する檀徒や世話人が死んだり、病気になったり、また開帳をする先々の仏舎が火災に逢ったりするので、後には誰も手を出さぬようになり、仏像は関山寺々戻ってきた。
しかるに関山寺も亦焼失とて当分の間回復が明らかではなく、僧も四散してしまったので村内の真言信者の某が自宅へ仏像を払い受けると、その宅が又焼失し、今度は酒造業の某が引き受けたが、又火事に逢った。
こうなると、恐ろしい仏だとて遂には誰も引き受け者が無い事になったが、何分霊験の著しい仏であるから、村民が共同で一棟の保管所を造ってそれに安置し、二人の管理者を立てて銘々にカギを持たせ、保管の責に任じたが、その保管者は、関山寺の檀徒の一人と村長とであった。
或る時神戸から金満家の未亡人が、一人の西洋人を連れて仏像を拝みに来てから、十七万円で買いたいと言い出した。二人の管理者は金に慾がめばえてこれを承諾し村民には極秘密で売買の契約を結んだ。そうして何程かの手金を取って、直ちに仏体及び付属品とも三個の荷物に仕立て通運業者の手にかけ、神戸へ密送をした。この事は、関係者以外の人間の知るはずの事ではなかった。しかるにここに意外の事件が盛り上がった。
丁度その日の朝の七時ごろである。関山村の村会議員でかねて硬骨の聞えの高い上田某が、何の用事もないのにブラリと一人で村役場へやって来た。平素役場へ来ることのない人間であるから、珍しいこととして役場員が迎へた。村長はまだ出勤して居らなかったので、書記と雑談を交へて居た。
そこへ、何処の人とも知られぬ、粗末な綿衣をきた五十前後の男がヒョッコリとやって来て、半紙二枚に書いたものを彼の硬骨議員へ無言で手渡して、そのまま出て行った。不思議な男な男もあるものだと思いながら、その書いた物を一読すると、村長が彼の貴い仏像を神戸へ密売し、今朝ほど荷造りをして発送をした。早く取り戻すが良い、取り戻さぬときは、村一同に禍殃がかかるぞと云う警告文であるが、署名はしてなかった。
これを読んだ上田某は嚇(激しくいかる、また怒って発する声)として怒った。直ちに役場を出て村長と相棒の管理者とを訪ね、大いに面詰(面責―面と向かって責めとがめる)。
二人は最初のほどは言を左右にして何も知らぬことだと言い張っていたので、さらば仏像を見せよと云うとそれもしない、そこで上田議員はいよいよ臭いと断定し、直ちに警察に訴へ、警察の手で取り調べさすと、果たしてその日の早天に、三個の木箱に重い物を入れて、神戸市の三宮駅宛てに発送された事実がわかった。
よって早速神戸の警察へ電報で荷物の取り抑へかたを言ってやった結果、仏像は取り抑へられて関山村へ送還になり、二名の管理者は横領罪で起訴されたが、売ったのではなく、貸したのだと言って、遂にことをうやむやにすませた。
然るに或る日の朝、保管所の堂の扉は鍵がかかって居るのに、中の仏像が外部の道路へ飛出て居た事が発見され、村民の騒ぎが強くなり、それからは、堅固な鉄格子が施されて、黄金仏の警護が厳重になった。右等の評判が、中橋家の原籍地である上小国村に伝わると、村民が黄金仏は我村で保管すべきものであるとて、保管換への訴訟を起こした。
関山村民も之に応じて敢然争抗した。花井卓造、鵜沢總明、原嘉道など当時の歴々の弁護士が原被両造に立分かれて骨を折った。
文部省でも黄金仏の評判を聞き込み調査をした結果、準国宝に指定をしたが、それと前後して、黄金仏が例の十八番もの雲隠れを演じて姿をくらましたので、訴訟も随って自然中止の状態になって今日に及んでいる。
また前記の硬骨議員に密告をした人間の誰であるかは、爾来今日に至るまで遂に知られずしまいである。関山村の人間は、黄金仏の化身であると信じているのももっとものことである。中橋家の現戸主は早晩、黄金仏の現出する時機あることを楽観しているが、果たしてそれは何時のことであるか不明である。
註
現在ではとかく陰陽道が話題になっているが、テレビとかで申しているのはただの除霊師であって、真の陰陽師ではない。世間一般的に現在の日本で昔の陰陽道の術を行う人はいないのであります。憑霊は悪い現象があると、それは悪霊であり、もう一つは霊能者であり、どちらも霊がついている状態であります。
かつて新潟県刈羽郡にあった村は現在の長岡市上小国村である。
関山村は妙高山の関山である。
鬼神駆弛道萬之伝
神仙道では「鬼神駆弛道萬之伝」と言うのが伝わっている。これは土御門大膳太夫阿倍晴明となっている。阿倍晴明に芦屋道萬が入門していたのであり、つまりは師弟関係にあった。
もともとこの道萬は播磨の出身であり、この播磨地方は陰陽道の盛んな土地であった。播磨は兵庫県及び姫路である。この地方は中国との交流が盛んだった場所でもあった。
阿倍晴明は貴族につき、道萬は一般民衆についたのであり、小説や映画・テレビなどはすべて面白おかしく誇張されて、事実とは全然違った物となり、道萬も晩年は播磨に帰って来ている。北陸地方では当時福井などが中国との交流の場であり、戦後復員兵なども多くこの所を目的として帰って来ている。
この道萬の秘伝書では桶の中に水を入れ、それに符字を書いて唱えごとをし、拍手して天津神国津神と唱えこの水を左に二杯、右に二杯、頭に一杯をかぶるとある。
秘事来臨香として、沈香五匁、肉桂三匁、丁香三匁、白壇三匁、白梅片三匁の五味、シロハイ花とは龍脳にて行なう。この龍脳香とは冰片にて白色であり、半透明の晶体であり、これには合成物と天然物とがあり、実はこの龍脳香と梅片とは区別される物であり、梅片は白色の半透明の粉状の晶体である。
これらは中薬、漢方薬である。日本に於いてこれらはなかなか手には入らない物であり、結構高い物であり、昔の時代、ときの有力者が中国と直接取引をしていて、入手しやすかったのであろう。
祭壇に五本の祓い串を立て、御供物を供える。御祭りするのは第一に炎羅天子、第二に五道大神、第三に泰山府君、第四に天官、第五に地官、第六に水官、第七に司命、第八に司録、第九に家巨丈人、第十に本命神、第十一に開路将軍、第十二に土地霊祇を祭り、外獅子印を結び真言を唱え、内獅子の印を結び真言を唱え、生霊、死霊、狐などの呪文を唱え続ける。