神仙道本部関係者

年月日

ご紹介

副斎主石○氏は少年時代及び青年時代を中国で過し広く仙道家と交游されたが、其の間医師星○氏や島○氏、吉○氏らから水位先生の業蹟を知らされるに及び其の偉大さに深く傾倒された。

 といふのも、氏のそれ迄の基礎的な学殖が相照して一挙に理会を深からしめたものであらう。終戦後は日本に引揚げられ五台山に来往されたが、今は中国東南アジア向け貿易業を営むご子息の後見役的存在。

 中国語に精通され、いまあの浩瀚な道蔵(道書の古典)を原書のままスラスラと解読出来るのは、日本では石○氏位のものであらう。音韻学上から中国語と日本語(古語ー和語)の相関性に及び基礎的な学術資料刊行されている。

 三男二女の父、末娘は中国語は素より英・仏語に堪能で一昨年大学を出て国際観光協会に勤務されている。小学校二年生の時来山以来のことであるが、今度来れたら私の「四郎探母」を聞いて呉れることになっている。家庭は石○氏の人柄そのままに平和そのものである。

斎務部長三○氏は高知市郊外の山間で式内社など数社に奉仕さるるれっきとした宮司さん、その中の一社はとても長い社名で、よほど体調のよい時でないと一息で言へないので苦労するとの述懐。

 神仙道とは五台山開闢以来のことで、本部との関係は、現世の人間道士としては生存者五人に限定される霊宝混沌五岳真形大図巻(神仙界では小童大君少名彦那大神の所治で霊真れいしんしるしとして寿真級の仙官に授けられる。帰幽道士では三△氏が其一人であった。

 然し晩節を試される場合が多く、火災などによって召し上げられるか、形のみは存しても、とっくにも抜けの殻的なものになっている場合が殆んどで、これは広く諸真形図類伝書類を通してさうである)の受持者の一人で、稟申判令二級正といふ階位がそれを表している。

 また霊的体験も豊富な方で、日本国の霊山は殆んど跋渉され、近年は中国奥地方から某方面に迄足を伸ばされた。一昨年の夏、鬚はぼうぼう伸び放題といふ変貌した姿でふらりと来訪されたので、今度はどこへと聞いたが笑って答へず、家族にも黙って日本を出たので、家の者ももう何週間も消息を知らぬ、これから帰宅する途次だとの話。もうお年だから自重するようど注告申上げておいた。

ー白雲深きところ五龍眠るー
山間の閑散たる神社に奉仕したればこそ此の自由がある、老子さまは周の王室図書館の端役を三百年勤め、それから西王母の仙界昆侖山に向はれた。連れは多い、慌てることはない。
(清水斎主口述)


 この石○氏とは清水斎主が亡くなられた葬式の時に始めて会い話をした事があった。当時は伊豆に住んでおられ、中国と直接貿易をしておられ、船を持っておられ、それで買い付けに行き貿易業をしておられた。

 このお人は修業を本格的にするような人ではなく、ただ神仙道の資料をあさる人物であった。清水斎主が入院している時に、この石○氏が本部に寝泊まりして神仙道の資料の整理をしており、そして多くの門人の人達が斎主にあてた手紙を自己判断で処分した。

 そして高知に住んでいる三○某が葬式に来られて二人が話しているのを聞くと、清水斎主が入院してる時にこの二人が斎主の許可なく勝手に水位先生の物をコピーしていたのであった。二人でやりましたなあ等と言っていた。清水斎主はこの石○氏だけが勝手にコピーしたのと思ってかなり怒り心頭であられた。

 その後この石○某は神仙道とは縁が切れてしまった。清水斎主はあってもわかりゃあしないと言っておられた。文中の医師星○氏や島○氏、吉○氏らはすでになくなっておられお会いした事がなかったが、しかしこの吉○氏の事は本部に滞在していた折りに詳しく話しを清水斎主より聞いた。

吉○氏の伝説
 このお人は柔術の達人であった。そして中国に渡り馬賊の親分としてその名をとどろかしていた。馬賊とはせいぜい数十人であり、それ以上だと軍隊になり、食べて活かせられない。そしてスターリンに会い、あんたに日本国を売り渡すので、金を用意してくれと言いスターリンをだまして金をせしめ、中国に戻ってきて昔の部下達を呼び集め、毎日ドンチャン騒ぎで、日本にもどって帰って来た時には一文無しで、そして高知でラーメン屋の屋台を引いていた。

 ある時警察署に警官から暴れているいる奴がいるので応援に来てほしいと連絡があり、その彼の息子は警察の柔道の教官をしていたので行ってみると、それは彼の親父であり、とっつかまえては投げ、とっつかまえては投げ飛ばしていた。そりゃ強いはずだと皆は感心していたとか。

 吉○氏が清水斎主にロウソクに印を結び鎮魂して見せると、ロウソクの火はグーンと大きく成りびっくりした。これは本田親徳式のやり方で、丸い自然石に向かい印を結びその石に向かって鎮魂するといった物であり、天行居でもこれを取り入れていた。

 しかしこれは鎮魂ではなく、振魂であり、鎮魂とは自分の魂を自分の体に鎮める物であり、決して外に出す物ではなく、外に出せばそれは即ち振り魂である。清水斎主は彼に「ほら良くご覧なさい、炎の火が黄色でしょう。これは魄の力であり、良くない、やめておきなさい」と申した。俗霊術とはこんな物である。正しい神界には通じようがない。

 さすがこの人は柔術の達人であり、その念力の力はとても強かった。またこのお人は大瀧おおたびの近くにある神社に泊まりこみそこに寝泊まりした。ある時寝ていると急に何かにかまれたと同時にそこをぶんなぐった。朝に起きてみるとそこにマムシが死んでいた。私は多くの人を戦争で中国大陸で殺したので神仙界にはとても行けないだろうから、ただの天狗を拝むのはしゃくなので、岩間山の杉山大僧正を拝みたい...。

 神仙道誌に簡単に天眼通が出来るのがあり、それは狐の○○を持つだけであると書いてあり、清水斎主はこの吉○氏に聞かれた事があったがそれは教えなかった。あれは教えると本当にやるので教えなかったと言っておられた。また妖魔を使う術も書いてあり、その事もお聞きし私は伝授を受けた。

 この人は前にフトンで病で寝ておられると、その家の人が斎主にあの人の体から子供が出たり入ったりしている、これはどうした物ですか?と聞いてきた。それはこうした物であると簡単に説明したとか。

 その本人はまだ元気な時、本部の神前で五岳真形図の第二伝の混成一変真形図、混成一変五童化真形図の修法を行なっていた事があった。北岳真形変化図(黒童化出真形図)、中岳真形変化図(黄童化出真形図)、南岳真形変化図(赤童化出真形図)、東岳真形変化図(青童化出真形図)、西岳真形変化図(白童化出真形図)の以上であり、この五臓よりそれぞれの童子が出てくるのであり、この修法をしていた。これは五人の童子が体より出てくる物であり、それが五人が合わさって一体化し、これが陽神と成るのであり、清水斎主が申すにはこのようにその人が亡くなる前に出てきたり、或いは生きている時に出てくる人もいると申す。なにもなければその人はその修業は間違っていたとの事である。

斎務部長三○氏
 このお人は高知地元であり、御太夫おたゆうさん、つまり神主をしていた。この人は神仙道が始まって以来より来ておられるが、しかし神仙道には関心がなく、全然興味がないと言った感じあり、全然知らなかった。相伝録第一巻もまともにやった事がない、本当に何を聞いても尋ねてもその返答はなかった。それで普通には日常茶飯事の事しか私は言わなかった。

 一月十五日は常磐先生、六月十五日は巌夫先生の祭日であり、その日の朝七時四十分ごろこの三○が旧本部に来て、九時三十分より祭事を開始した。当時清水斎主は体が悪く、顕祭(普通のお祭り)だけこの人が代理をしていた。その時清水斎主は右、私は左側にすわっていた。

 祭事の途中でこの人の動作が止まってしまっていた。あとで聞くと席より放り出された感じがして、言葉が出なかったとの事、頭がボーッとしてしまい、わけがわからなくなったとの事。斎主の任に非ざる者とのお教えだったのであろう。時に六十年祭であった。後に本当の斎主(私の事)が居るのになんでお前がそこでおるのだとの事であろう。

 神仙道には関わりたくないと言っておきながら、最後には小○の親大将となりはてていた。ある時この人より「除罪過符の修法・霊璽の作り方を教えて欲しい」と言われたが、「それは斎主の身分のある者だけが行なうであり、あなたは斎主ではないでしょう」と言って断り教えなかった。

 清水斎主が亡くなられた後、小○に言われて一時神仙道の霊璽を作ったが、これを見ると木の板にただ印刷してある霊符を貼り、ハンを押してあり、ひどい事には姓名を書く所が毛筆ではなく、ボールペンで書かれていた点であります。当然何の鎮霊をなされていない、本人さんはやったつもりであろうがその効果はなし。この証拠の品は何個か所持している。

 又聞けばこの人物は神界に出入りしていると言う。こういう人物がなんで神界に出入りできようか、権威づけのためとは言え、みんなを騙すのもほどほどにしてもらいたい物であります。

 清水斎主が戦時中国より班猫はんみょうを呑まされて日本に帰ってきた。このはんみょうとは小さな昆虫であり、これは当時毒薬として暗殺に良く使われた。生まれ故郷の香川に帰ってきてそして天行居に呼ばれてそこで幹部として働いた。

 それよりこの天行居は水位先生の継承とは言っているどうもおかしいと思い、そしてその後宮地厳夫先生のご子息、宮地威夫先生と知り合った。威夫先生は実は高知には家もあり、高知に住むと考えておられたが、しかし高知の神職一同が大反対したのでいけなかった。偉い大先生が高知に来ると、今まで高知で一番の神職だと偉そうにしていた彼等が二流になるので、どうしても阻止したかったのである。

 そこで威夫先生は家の売却を清水斎主にお願いした。このやりとりは当時その手紙類があった。威夫先生は何回も寒川神社より高知に来ておられた。その時にはいつも風呂敷包みにつつんだ水位先生の伝書類を持って来られたとの事であった。

 清水斎主は戦時中陸軍特務機関の要員として中国に渡り、主として支那古文化保存の名目で募集した。南昌におられた時にそこでミス南昌と知り合い、女と男の関係になった。戦後この女性は清水斎主を尋ねて来たが、奥さんが追い返したとの事であった。斎主は当時軍隊の中では位が偉かった。

 ある時などは拳銃を天井めがけて打った事もあり、その時天井は木製であったとか、当時はタバコを吸っていたので、残りを人間の高さもある大花瓶の中にほうっていたとの事であった。

 南昌の西山万寿宮に駐留していた時、兵隊達が寒いのでその廟に置いてある木彫りの版画類をたき火のかわりに燃やし始めたので、そんな事はしてはいかん!と部下達をしかりつけ、しっかりと保管させたとの事であった。江西省南昌市に道書集納の図書館を作り、これに収めて保管した。

 一時日本人の中国の帰国児のニュースが盛んにテレビで放送されていた事があり、斎主・奥さん、私たちはそのうちに南昌での彼女の事があったので斎主の落とし種の子がいずれ日本に出てくるのかと話しあったが、さすがにそれはなかったようであった。

 神仙道が開かれて以来、実際にその活動をされていたのは約十年間であり、その戦後の時には弟子達も千人位はいたであろう。神仙道誌類も出され、関東には副斎主・関東支庁長として根○氏や副斎主・関西支庁長溝○氏などがおられた。

 この十年の期間で実際に出来た、力のある人などは多くは帰幽しなくなり、そして後に残ったのは殆どカスばかりの連中であった。清水斎主はへそ曲りなお人で、当時宗教法人にはしなかった。

 それがあとになって資料の分散を招き、沖○のように奥さんに水位先生の書かれた巻き物の『五岳真形図」をあずかり、返却せずそのまま自分の物とし、あげくのはてに神仙道をやめる直前に清水斎主の事をボロカスに言い出し、清水斎主は道教をやっている、あれらは本物の水位先生の物ではないと難癖をつけ、宮○○○を担ぎ上げ、宮地神道なる物を約三十年前に担ぎ上げたが、皆より伊勢で自分らの会を開くのでと寄付金を集め、本人の性格の悪さ、その又理屈ばかり、金銭関係の事で早くより問題を起こし、彼と別れる人達が多く出現し、現在では彼も生死不明の状態であり、彼のその開いた会もすでに早くよりなくなっている。