灘公教の狩猟術

年月日

 今年に灘教の師の所に行った折、倒立をしている張五郎の木彫りの御神像・木彫りの土地公の仮面・師祖が使っていた竹製のポエ、それに儀式に使う小さめのドラ二種類をわけていただいた。この張五郎の御神像は約五十年は経っていると申された。背中には四角にみぞがあり、そこには装蔵約として多くの種類の漢方薬が入っており、四角形の木で以てそこを塞いであった。仏教的には背中には多くの場合は経文が入れてある物である。

 この張五郎の御神像は梅山教では非常に大事にする物ではあるが、我々の灘公教でもお祭り申し上げる物であり、二・三個は置いてあると申され、更には師の御神壇にはやはり梅山教と同じく、法官の木彫りの御神像とが置いてあった。これも必ず要る物であると申された。前に梅山教の師より頂いた御神像の壇図の掛け軸になっている物でもこの法官が書かれていた物であり、最初はどのお方かわからず、聞いてそれは法官であると申され、納得した次第であった。

 土地公の仮面は儀式に使う時に、そのお面をかぶって使う物であり、これもかなり年代が経っている物であると申された。灘教では古くは多くの御神像の仮面があったが、迷信として焼かれ現在ではなくなっており、作る人もおらず失伝してしまっている。ポエは二個の竹製であり、この両方の裏には九個・八個のみぞがあり、それぞれのみぞには鶏の鶏冠の血がつけてあり、師祖が使っていた物であると申された。ドラは本気で叩くとかなりうるさい物であり、お教を御咏歌と同じような調子で歌うときに、このドラを使うのであり、音楽の伴奏と同じような調子で使うのであり、武壇では必ずこれを使う。武壇とは外で壇を築き、数人でこの儀式を行なう物であり、それが日本に入ってきて東北地方及びそれぞれの地方ではその意義がすでになくなったとしても、形だけは残っていて今でも盛んに行なわれている。

 師のパソコンの中に儀式の写真があったので、これらを欲しいと申し上げると、USBをいただいた。日本に帰ってからこれをブルーレイ(プレーヤー)のUSBの差し込み口に入れてみようとしたが、しかし写らなく、急に要る事ではないのでしばらくそのままにしておいたが、ある時にふと写真屋に持っていこうと思った。はたして写る事が出来たので現像してもらった。それは葬式をやっている約三十二枚の儀式の写真であった。これは灘公教の儀式であり、来年きた時にはこの葬式のやり方・及び耳報法を伝授するとおっしゃった。

 今回行った主要なる目的は、狩猟術を会得するためであり、これは要するにマタギの術であり、梅山教では非常に有名な物ではあるが、しかし現在では殆ど絶伝しかかっており、これを知っている人は非常に数少ない。中国では狩りをするのはそれ自体禁止されており、これがすでに数十年続いていた関係上、誰もこれを習う人もいなく、やる人もいなく、灘公教の師の先生、即ち師祖のお父さんまでは猟師をやっていた関係上、これが伝わっていたとの事であり、梅山狩猟とあるので私は師が別の人について習ったのかと思ったので、それで尋ねると、いや私の先生は灘公教の師一人だけであると申された。
 狩猟術は来年行った時に習いますよと先に申しておいたので、伝書が作られていた。これは乙未年冬月作成となっており、第一本・第二本の上下集であった。あなただけに伝授すると申された。これは主には動物相手の物ではあるが、しかし人間相手にも使える物であり、その術は霸道的であり、その殺気・威力はとても強い物であり、師が私に伝授し終えたあたりより師は急に頭が痛くなったとおっしゃった。なんらかのカが働いたのであろう。

 これらの術に関連して「祭猖扎将さいしょうさっしょう」の伝があり、これは鎮壇や祭猖・狩猟などの時に行なう物であり、狩猟に行く前や行った後、又は祈福等の時に室外で壇を築いて行なう武壇であり、黄衣の道服を着て行ない、上下の壇に分かれ、上の壇には四角形の斗を置き、この中には法具を入れ置き、五色の旗を置き、それに香炉を置き、鶏・ブタ肉・五個のお碗・五個の洒・黄紙類を壇上に置く。下の壇には土地公・張五郎の御神像を置き、ご咏歌を唱えるような調子で呪文を唱えていき、時々にはドラを配合して叩き、罡を踏みポエで陰陽を出し、放兵を行ない、謝師銭財を行なって終わる物である。