紫蘭鳳宮真形図

年月日

霊宝七十二真形図中の玄台秘図

北天神界紫蘭しらん鳳宮ほうきゅう真形図付嘱

 水位先生の神仙真形図施行法に曰ふ「夫れ真形図に数種あり、合せて霊宝七十二図、仙官至人此図を尊秘し仙名有る者に非ずんば授く可らる也」と。以て之等真形図の尊むべく秘すべき所以を知るに足るべし。

 仙名有る者とは其の名神界の仙籍に列せられたる者にして、仙去の後は神階を得て幽中の神府に仕官を許さるべき奉道士を謂ふ也。乃ち霊宝七十二図中の一たる彼の五岳真形図の如きに至りては「霊真ノしるしトシテ之ヲ出ス」と謂はれ本来は寿真の仙階を得たる真人の授かるべきもの也。

 曩に水位先生御五十年祭日を以て撰ばれたる極めて少数の地上有縁の道骨の士に対し、七十二真形図公開の嚆矢として其中の最も重秘の尊図たる玉京山紫蘭鳳宮真形図を付嘱すべく決定しありし処、西王母真図付嘱時期の遅延を見たる為め順延の止むなきに至りしが、茲に神ながらに神集岳に於ける幽中司命の根本簿籙改訂の聖日たる十月九日を前にし此の荘厳を闢くに至りたるを御同慶と致す次第也。

(玄宝羽経に云ふ、得道の仙は登天して先づ上々天一を拝し、以て元始天王を拝し東王父を拝し、次に西王母に謁して紫蘭鳳宮殿に登るを赦さると。西王母真図出るの後に非ざれば紫蘭鳳宮図の出づべからざりしこと亦天意の本づくところなりし乎。)

 此紫蘭鳳宮真形図は本来丹章籍より金文籍を経て紫書籍に撰抜されたる道士に対し七十二真形中の許さるる或十数図の付嘱ををはりたる後に於て、謂はば最終段階の奥許しともいふべき付嘱に当てらるべき筋のものなれど、其撰抜には尚ほ十五年乃至二十年以上或は数十年を要すべく、斯くては現在道士大半は既に現界に在らざるべく其道福に浴するの士も亦殆ど稀にして其悔も亦永かるべきに就き可及的現界生活中に於て此道福に繋がらしめんとの考慮の下に先師五十年祭を以て其至期と為したる也。

(霊宝真経に云ふ、諸真形図は仙官の真秘也。之を道士に授与するに四十年に一伝するのみと。又内伝に諸名の真霊下りて山川に遊び有心の学夫を視察して或は之を伝ふるに四十年に一伝す。道を得る者は四百年に一伝し仙を得る者は四千年に一伝し真を得る者は四万年に一伝し太上に昇る者は四十万年にして一伝すと。実に運命の遇に非ざれば千万年を転生すと雖も斯の如き道機に恵まるることなきなり。以て我が道統結縁の道福を知るに足るべし。)

 水位先生又のたまはく、道士神仙に通じ長生ちょうせいを求めんと欲すればまさに此図を得べし、(先生の註に曰く、本文にまさに此図を得べしと称するも七十二図悉く皆之を得べしと謂ふに非ず、七十二図中の一図を指して謂ふ也と。)

 家に此図有れば百毒百邪敢て人に近づかず、妖魅の災をけ、若し病に困しみ死に垂んとするに其道を信ずるの心至れる者は此図を以て之を与持いただかしむれば必ず死せざる也と。受くる者其の霊威を畏み奉り必ず軽信の所為なかるべし。

 紫蘭鳳宮の所在に就ては先師の異境備忘録に「紫微宮玉京山鳳宮の形状を拝せんとするには先づ空中寒烈の処を登りて又降らんとすれば黄黒色にて地を見るが如き其中央と覚ゆる処より三色の電光を放つ、是れ則ち玉京山なり。其光を目標として降ること二時間ばかりと思ふなり。さて海岸に降着きて南方と覚しき海中に紫蘭島屹立す。其中に宮殿楼閣空碧に聳え属島二あり。」とあり、又神仙真形図施行法に「玉京山紫微宮ノ属島紫蘭宮ノ真形図ニシテ上皇太一(又上々天一とも太一真君とも称し天之御中主神なり)ノ居ル所、高嶋玉楼宮殿有リテ其美麗言語ニ絶ス此図月頭ニ出シテ窺フべシ、良久シバラクニシテ神仙ニ通ジ不死之道ヲ得」とあり。実に是れ宇宙大元霊真一の宗玄天之御中主神の鎮り玉ふ宮殿其内に坐すなり。

 爰に前に引ける所の「得道の仙は登天して先づ上々天一を拝し ー 西王母に謁して紫蘭鳳宮殿に登るを赦さる」との消息と相発して深思せば西王母真図に継ぎて紫蘭鳳宮真形図を授けらるる者の其の幽契を窺ふを得む。

 枕中書に云ふ「玉京に八十一万の天路有りて八十一万の山岳洞室に通ず。得道の仙真にはみな其の宮第を賜ふ。七宝の宮闕、或は名山に在り。山岳群真の居る所すべて八十一万処なり。上仙の天任を受くる者、一日に三たび玄都大真人に朝す。億万里有りと雖も往還すること一歩の如し。世人いずくんぞ此を知らむ」と。

 今之を受くる者其れ天任の幽契をあなどりて千古難値あひがたきの道縁を断絶せらるること勿れ。

昭和二十九年九月清秋

神仙道本部

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