茅山派

茅山派とは

 茅山派とは世界的巫術の一派で中国に始まる。それには種々の伝説があり、代々伝えられて、茅山法術は今に到るまでも健在である。
 現在、台湾の符呪門派では、大別して張天師派、三奶派、茅山派、鳳陽派等の門派があり、一般的に広く民衆に知られているものには第一に張天師派、次に三奶派が挙げられ、茅山派、鳳陽派の道士に至っては数が非常に少ない。
 特にこの茅山派に至っては、大衆より「マオサン法(ファ)」と呼ばれて、非常に恐れられている。また、この門派は現地にいる中国人、また道土間にあっても、誰が果たしてこの茅山の法術を心得ているのか、知っている者は極めて少数である。またこの門派の符呪には、現在でも摩詞不思議なる秘術が伝わっているのである。

茅山派の歴史

 この茅山派の起こりは、かなり古くからであって、司馬遷の史記『秦始皇本記』集解の「茅盈内記」に曰く、始皇三十年九月庚子、茅盈の高祖父に当たる茅濠が、華山にて雲に乗じ竜に駕して白日昇天をした。これが、秦の始皇帝が不老不死の仙術を求める原因となったのである。
 そして漢の時代になって、その孫に当たる茅盈が祖父の秘伝書を得て、年十八にして恒山に籠って修道をした。その後、茅山に移り住み、王君に師事して得道の仙人となり、そして迎えの神仙達と共に、また白日にしずしずと天に昇って行ったのである。

 この茅盈には二人の弟達がいて、それぞれ高い位についていたか、兄か得道の仙人となったのを聞いてそれを辞職し、家に帰り川を渡り山に来て、兄を探し求めた。すると間もなく兄が現れて弟達に仙道の伝授をし、また九転の還丹を与えたので、彼等も遂に仙人となり茅山に住むようになったところから、彼等を「三茅君」と呼び、その道門を茅山法と呼ぶようになったのである。
 宋の人の筆記した中には、茅山術に関した事件を記述したものがすこぶる多い。茅山の地運が旺運を得れば(風水でいうところの、その土地のよい時期)得道の仙人が多く出て、衰運ならば邪師が輩出するのである。

茅山派 梗概

 茅山派は玄妙にして歴史的伝説によると、それは漢の時代に始まり、また張天師の五雪正法の道家の別の一流派である。茅山派の開山祖師は茅盈の三兄弟であり、世の人はこれを三茅君と称する。その法術は上・中・下の三種に分かれ、上は茅盈の長男が使用したもので「上茅」と称し、二男は「中茅」、三男は「下茅」をそれぞれ使用した。「上茅」は正道を歩み、「中茅」は正ならず邪ならず、「下茅」は専ら邪門をゆくものである。

 尋得好山、定名茅山(良い山を尋ね得て、茅山と名を定める)

 漢の時代に三人の兄弟がいて道家の法術を学び、修道練法術の場所を探さんとした。長江南北黄沙の区域・長江の険しい地帯を探し行くも満足のする所はなく、彼らは苦しみに堪え、精力的に継続し絶対に失望はしなかった。そうして江蘇省の句容縣の東南の所で足を休め止めると、忽然として一座の人山が眼前に出現した。長男の茅盈は新大陸を発見したように驚嘆して止まず、「良い山、良い山だ、思っていた通りの良い山だ」。この時に二男・三男もこの山の山峰が奇特で、天地の大きく強い気があるのを発見し、同時に「気候も良く、この山は我々と縁がある。遂に天地の宝を探し得られた。我々は本当にうれしい」。
 この三兄弟は各自の意見を以て、山に登って最も良い場所を選び、家を建てて修法を開始した。それぞれの修法を「句曲山上」の各地点にて治め、茅盈は此れによって「旬曲山」を茅山と改め、永く世に留めた。彼らはそれぞれの修法・各法の結果は茅盈は正法が修め成り、次期は不正不邪の所謂中が修め成り、三男は専ら邪門の秘笈に走り、巫術の先端を作った。

 茅山派の故事の別の伝説では濃厚なる神話の色彩を具している。一説によれば中国の古代にある真人がいて、彼は三人の弟子を採り、法術を三人に伝授した。
 大弟子(一番弟子)の資質は聡明で悟りよく、体格もとても良い。第二の弟子の資質は大弟子と比べ少し劣り、三番目の弟子は上の二人の兄弟子と比べてかなり劣り、体格も大分劣る。この真人は三人の弟子を観察し、上のは純良で心の底も良く人を助けるのが好きであり、これによって絶対的に正しい道を歩み、この人材を養成でき、将来急を救い危うきを助け、天に代わって道を行うと断定した。
 二番目の弟子を観察、平和的で人と争わない人物であり、心の底も悪くない、万事成るがままにまかせるたちである。
 最後の一人は根骨が異なり、二人の兄弟子達とも違い、心が陰険で手段が残忍であり、とても満足し難いがそれでも弟子に採った。
 それもまた自然にまかせようとしたわけで、真人は同じ法術を三人に伝え、三人の修行を見て、将来的に誰が前に名を連ねるか見ようとした訳である。彼はまた法術を善良の人、普通の人、邪悪の人に伝えてどんな区別があるのか、且つ法術はこの世界上正あり邪あり、道高き事一尺なれば魔は高さ一丈の原理に基づき、彼は一生学ぶ所のものを分けずそれぞれを三人に伝授した。

 どの位の年月がたったか三人の法術は練り成り、これに於いて真人は三人に向かって「よし、お前達はわしが教え導いた術法はすでに会得した。その成果として各人が法力を働かせて、天上の玉皇上帝に見に行って参れ」。そこで三人は法力を使って雲に昇り霧に駕して天庭に向かって行った。
 大弟子は心が清く法も正しい、心に邪念もなく、人間世界を振り向かず気を練って神に化し、邪なく悪なく天庭の路上で万道の金光のはばむのも受けず雷の如くに飛んで行った。南天門を越えてゆこうとする際に太白金星が前に立ちふさがり、長い袖を一弘いし強烈な気を発して彼を打ち落とそうとした。しかし彼の乗るのは祥雲であり、亳光を以て気を押し戻し大弟子は祥光ひかり輝く祥雲に乗って南大門の神界の門に辿り着いたのであった。
 二人目は白雲に乗って昇って行くと、太白金星が前に立ちふさがり、長い袖を一払いすると、袖の風圧が巻き起こり、巨大な波が狂風であおられるが如く、神風の神威に立ち向かえずゆらゆらと倒れんとした。そこで空中に停留し、南天門まではゆかれなかった。
 三番目は黒雲に乗って上に昇って行ったところ、太白金星に道をふさがれ、袖を一弘いされると神の風圧は狂龍が猛り狂うが如くであり、全然立ち向かえず、失墜して人間の世界に戻って行った。弟子は心に雑念があり人間世界のキラキラと輝ている燈の光り、今ならばネオンの光りか、浮世の世界に未練があって、練気化神の境界まで到達していなかったので神の風に払い落とされたのであった。

 太白金星が満面に笑みを浮かべて真人に対し、「よし、あなたのための試験の結果すでにはっきりしただろう。一番目は成績が優秀、優等生であり、二番目はその次、三番目はずーっと付いて来られず、一番下である」。
 真人は太白金星に対してお礼を申し上げ、「多く仙翁の試しをこうむり勝負が決まり、私は後日、この三人の弟子をより気を付け、多くの善を行い、徳を積み、急を救い危うきをお助け、天に代わって道を行わせましょう。それでは私等は此れより人間世界に帰りましょう」。真人と大弟子は太白金星と別れ凡塵にと帰って行ったが、此の時の彼ら二人は亳光がキラキラと輝いていた。
 大弟子は段々と紅塵(世の中)の汚染を離脱し、青山の白雲、亳光瑞気の正気が充実して正茅山の上茅を伝えた。上茅とは神仙変化の術である。二番弟子は道を得、中茅であり、三番弟子は邪門の最高境界まで練り達し下茅を伝えた。下茅とは巫術であり、実にさまざまなる人を害する術がある。

六甲壇の修練について

 茅山派では先ず六甲壇の修練を行なう。神仙道でも六甲霊飛伝があり、此の霊飛十二事の一法たる使役法には外感法と内感法とがある。
 外感法は主として外在の十二識神を招使するものである。内感法は身内の感神を使役するのであって、これには太上幽宮青真小童六甲文がある。この符文は六甲六丁玉女を召すの秘符にして真仙の重秘する所であるとして、一符を出伝されたが、実はこれは合計四符あり、また六甲霊飛伝も六甲霊飛左右之符のみが伝わっているのみである。
 また神仙道では「七籤これを除く、玉女図第二段大字」との伝もある。茅山六甲壇はこの外感法の外在の十二識神の六甲六丁を使う術である。

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