奇門遁甲(2)

年月日

 内藤文穏氏の書かれた「奇門遁甲」の本の中に、台湾の九六居派の黄南輝先生の奇門の事が書かれていたが、実は当時我が師の鉄板道人も台北の師範大学の裏の通りにあった黄南輝先生の近くに住んでいて、時折彼の所に行って奇門遁甲の事で討論していたと申しており、九六居の奇門の事も詳しかった。

○九六居派、奇門遁甲九層剋応秘法
一、八門加八宮、八門と定位との関係
二、天奇儀加地奇儀、天地盤との関係
三、八将加八門、八神と八門との関係
四、天星加地盤星、天盤の九星と地盤九星との関係
五、天奇儀加人奇儀加地奇儀、天盤の九星八門と地盤九星との関係
六、八門単独断法、八門だけを見て吉凶を定める
七、天盤星単独断法、天盤の九星のみで吉凶を見る
八、地盤星単独断法、地盤の九星のみで吉凶を見る
九、天将単独断法、八神のみで吉凶を見る
鉄板道人註、以上九層これ後人の書いた所
三の八将會八門剋応
値符、及び休門、生門、開門、景門、杜門、傷門、驚門、死門との関係
騰蛇、太陰、六合、勾白、朱玄、九地、九天と八門との関係
九星剋応秘法
天蓬、天内、天沖、天輔、天心、天柱、天任、天英

○鉄板道人九層変化法
一、一変加盤
二、二変奇儀
三、三変従支 四、四変日干
五、五変日支
六、六変去上下二爻
七、七変時干
八、八変時支
九、九変従主賓
出黄石公仙翁大字本八十二本、以上是正宗奇門
 以上のこの九層変化法は一種の判断方法であり、この説明は一切省略する物である。これは判断法の一部分であり、実際には数多くの物があり、誠に奇門遁甲はロ伝だらけである。

○九六居派の超接置潤法
 一九四八年旧暦十一月二十日の己卯日が符首であり、二十二日の辛巳日辰の時が冬至であり、九六居の方法では己卯日を接気と称する。又一九四八年旧暦十二月六日の「甲午」は冬至の後十三日であり、九六居では甲午の日を「超神」と称する。又一九四九年旧暦十一月三日は冬至であり、旧暦十月二十六日の己卯の日のが符首であり、九六居では「己卯日」を接気と称する。又旧暦十一月十一日は甲午の日で、冬至の後第八日目であり、九六居では「甲午日」を超神と称する。
 以上のように九六居では「超神」を接気と称し、接気を「超神」となっているのであり、前後の名称が逆になっている。台北市の町で売っている「奇門遁甲大全」にも又九六居と同じ様な説法をしている物がある。
鉄板道人超接置潤正論、省略。

○私の師事している玄皇教の先生が奇門遁甲について書いた物があるので紹介しよう。

私の知っている真正なる奇門遁甲

 ある偶然なる機会に私は一人の奇門の伝人と知り合った。初めてお目にかかった時にはお会いした時が遅かったのをくやまれ、ご許可をいただいて住所を教えてもらった。ある時間が経ってから二人の易の友人と共に訪間する事にした。夜に私と二人の易友は彼の家にと行った。目的は真正なる奇門遁甲を知りたかったからである。彼は「良くおいでになられてお座り下さい」と我々に声をかけた。

 「皆さん、本題に入りましょう。あなた達が今晩、我が家に来られたのは私の実力を見たいからでありましょう。時間の浪費をしても仕方ないので早速始めましょう」と、彼は私に外に出て一つの物を持ってくるようにと申しつけ、二人の易友は動かず彼をとりかこみ、射覆の技が始まった。私が始めに取ったのは一個の乾いたトウモロコシであり、我が席に座ってから、彼は「それは黄色の物であり、その土産の物であり、先はとがっている。中間は丸く、長形の物である…」。

 二回目の易友が手にしたのはひとかたまりの氷であり、彼は「あなたの手にしたのは白色であり、固体で含水量百%である…」。又試す事五、六回、すべて当てられ、毎回自分の目で見たようであり、威服してしまった。

 続いて測命であり、我々三人はすべて八字を言わなかったが、しかし彼は我々の最近の事や及び十年前の出来事や、その中の一人は隠していた女性問題の事を皆いわれ、その易友は真っ赤な顔となった。これより知るべく奇門測命は所謂年命や日元等の雑砕を必要としなく、私は又彼に現在は何局でありましょうかと尋ねたところ、いらない、外に出て占いをするのにお客がきて、誰がそんなに待つのであろうか?最も多くて十秒もかからず、言える事が出来る。

 私は又奇門の法術の問題に関して尋ねた。彼は「奇門の法術は本当に存在する。あなたが私を尋ねてきたとして家のイスを随意に動かしたとして、それであなたには私が見えなくなる。しかしこれは法術ではなく、陣法であり、真正なる法術はどのようにして行なうのかはわかっているが、しかしこれは縁や能力の問題であり、私自身の能力がだめ過ぎて、それを使う事が出来なくて、ただ放棄してしまった。友達がいて私に習いたいとしつこくまとわりつかれたので、その方法を教えた。彼には早くて三か月、遅くても五か月で効果があるであろうと伝えた。彼は方法通りに行ない、二か月になってからそれより修練をしなくなった」。

 ここで彼は口を止めたので、私は口をはさみ、彼は驚くような物を見たからでありましょう、彼は申さず彼の眼から私に同意する気配が感じ取られた。彼が申すには奇門の法術は沢山あり、地遁(地面の中を行く)、叠路(別の場所に出現する、ジヤンプする)等々。

 私は命を改める事が出来るのかと問うと、「あなた方、私の現在の家の状況を知られて改められないと知られたでしょう。彼の家はいたんでおり、家の中でテレビやラジオは皆なく、一生普通の人であり、彼は申す、私の今のかせいだ金は前に占いでかせいだのであり、占いが当たるのでどこかを問わず、多くの収入があった。ここ数年占いだけではダメで、数年前にそれで医道を学び、八卦の中より骨折を治療する方を考え出し、薬を友達の診療所に持って行き売った所が、思いがけずその効果は非常に良く、現在の生活は金に困る事はなく、数十万を集めるのに何の問題もない」。

 私は又地遁、叠路の法術に着いて尋ねた。彼は私にある疑惑をしゃべった。「地遁は六個の字であり、十年思っていたが、まだわからない。私はそれでその六個の字をかかない。叠路法があり、これは更に人をうらやましがらせるが、時間だけが過ぎ去り、更になんぞいわんや修練や!人の生命を奪う方法もあり、自分で行なわずとも出来、汝の仇家従って…」等々。
 私は又六壬の事情について尋ねた。彼は一句の歌詞で説いたが、意味としてはもしも六壬の神髄を得たければ、奇門の中の真妙訣を必要とする。それは二者はいっしょの物である。

 私は彼に「あなたのそんなに当たるのなら、何で宝クジを買いに行かないのか?」彼は「行った事があり、三回行った。しかし毎回特賞は他人に買われ、自分は努力したが、ただほんの少しを得られただけであり、長い時間をかけてであり、良く聞いてよ、必ずいい時間や方向、特定の位置を選んでこそ、それで財が来るのであり、この当たった物は超級なる綿密な演算によって得られた物であり、それで強いて求めても得られず、奇門六壬をわかっていてもこのような物であり、命運は変えられない。ただ良く避けられるだけであり、又このように申すとしよう。どの人も皆自分の独立した人生の道路があり、あなたがどんな方法を使っても市長や県長などの富貴道路を行けず、ただ自分の道を歩くだけである」。

 彼が言うには、彼が若い時に二人の仲良しの友達がいて、一緒に奇門の書を学んだ。この二人は非常に聡明であり、全面の奇門の測事は大変早く習得した。そして後の部分の奇門の法術の部分を始めた。始めた時なんにも不正常な事がなかったが、後になって一句の語がわからない時により、魔境にと入った。各種の奇怪なる行為が出現し、最後には注射器で自分に針を打ち自殺してしまった。もう一人はこれよりまだ良く、まだ救われて、精神が不正常以外には、その他一切はまだ良かった。彼が言うには「自分が一句の語を見た時、ずっと考えてもわからず、それでやめてしまい、忘れてしまった」。
(但し、皆さん知っておられるでしょう、一門の学門を研究して、もしも問題にゆきあたり止めれば、永遠に成功出来ず、それで彼は永遠に修練しても出来なかった)

 彼のいとこも奇門が成り、若い時に人の討債を助けた。結果全勝であり、何年もの債務が彼の指点で成功出来た。この事が債務のある者の耳にはいり、ある晩に玄関をノックする者があり、彼が門をあけるや、相手は一個のナイフで素早く彼のいとこの胸を貫いた。その後にすぐに死亡したのであり、これはこのその父親よりじかに我々が聞いた話しであり、我々が行った時、彼は隠そうとしたが、我々が此の物を学ぶために来たのではなく、見識を広めたいと申し、別に意味はないんですと申して、それでしゃべった話しなので、我々は本当だと信じている。

 彼は自分で一種の簡単なる算命法を考えだした。それは奇門の算命が遅すぎるからで言うのではあるが、私から言えば実に尋常なる速さではある。それはただ金木水火土の五つの字で人に算命をするのであるが、我々三人に皆これで算命した。彼は我々にこの五行を用いての解釈をし、聞いた時には分かった感覚があったが、自分でやるとダメであった。「おかしい」。彼が申す、もしも徐子平が生きていたならば、ビツクリして腰を抜かすであろう。彼はその複雑なる八字の予測体系を簡単に五つの字としたのは、本当に簡単ではない。奇門を学ぼうとする人やこれに全精神をかけてやろうとする人は、本物を学ぶ必要があり、奇門の準確率が一〇〇+となるのは問題なし。

 私が思うに張志春や劉光斌の奇門で、人に十分待たせてそして八字を申し上げ、命局と結合し、始めて占って少しだけの当たりでは、このような人に学んで、前途があるであろうか?すでに真正なる奇門の老師が見つけなければ、なにを学んだらいいのか?それならば六壬を学んだ法が良いであろう。その道はゆっくりではあるが、しかし畢寛これは正宗であり、古今の大師は皆このように学んだ、用いるのは同様なる工具であり、彼等は占って皆良く当たり、我々はいつも常に行なへば、したたった水は石をも穴をあけるのであり、 六壬を学べば神経がおかしくなる事もなく、六壬を学んでおかしくなった人など聞いた事もない。

 奇門は神秘莫測なる物で、鬼神もこれに動き、天地の造化を奪う物であり、遁甲は兵のために設けたのであり、兵とは凶器なり、やむを得ずときにこれを用い、ある人は小さな事でも遁甲で予測するのは、高レーザを発射する尺を持ち歩き、あれこれ予測し、量りまくるのは、時間がながければ必然と自分を傷つけるに致る。しかも六壬は人事を予測するのが主であり、百分の百安全であります。奇門遁甲は凶器に近い物であり、瞬間に人を殺すのであり、遁甲は良く切れる剣のようであり、六壬は扇子のようであり、遁甲は即ち将が専用する物であり、六壬とは文人が良く為す物である。大多数がこう言っているのであり、どれが合って入るかは自分の選択にまかせる物である。

 このお方の奇門の老師は「奇門だけに頼っては大財を得る事は出来ず、命中に財がありともなくとも強いて求める事なかれ」、彼と知り合って彼に飛宮奇門を習いたいと思ったが、かれと私とはこんなに知り合っても教えようとはしなく、なんぞいわんや別の知らない人などは!私が尋ねる事には彼はすぐに答えたが、しかしひとたび奇門の話が出れば、彼は今はその時ではないとはぐらかすのであり、私も彼にそれ以上求めなかった。奇門を学ぶのに唯数理部分ではおかしくはならず、かれも同意し又肯定もした。

 覚えているのは最初その奇門の達人にお会いした時、わたしも少しわかるので、それで尋ねてきた、三奇とは六儀とは、私は乙丙丁が三奇であり、戊己庚辛壬癸が六儀であると申したが、彼には反応がなく、また話しもなく間違いともいわなかったので、話の仕様がなかった。私は彼に奇門のどんな本なのかと聞くと、彼は全部で四冊あり、二本は陰遁であり、もう二冊は陽遁であり、第一ページは金木水火を講じ、第二ページは五行の用法、第三ページは奇門の測事であり、第四ページが風水の測事であり、それより擺陣や多くの法術であり、伝説中の物は皆すべてあり、彼はなんで聞くのかと不思議がるのであり、あなたがこれらを学んでどうするのか?それらは一部の兵略の戦書であり、兵を起こして戦うためであり、現在では使えない。最も多くて測事測命であり、あなたの家の上三輩下三輩までわかり、来られた時間のみで良く、生辰を言う必要がない。

 彼の名声は外の多くの人達が知っており、彼自身の村で彼を尋ねて来る人は多くはなかった。彼は家では占いに繰る人はとても少なく、彼の村の人も彼が占いをしているのを殆ど見なかった。彼が若い時にはいつも電車に乗って少し貧しい町に行って占いをしており、銭は少なくとも来る人は多かったので、それで一度行けば普通人の一年分の金をかせぐ事が出来た。初めて彼の家に行った折、彼と連続話す事十八時間、次の日は仕事に行かねばならなかった。その間奇門以外にその他の多くの知識にも及び、どの項目も聞いた事のない物ばかりであり、信じられない程であった。彼は私の顔を見て、準確に迅速に私の手の紋の状況をしゃべったりした。後の夜中皆すべて驚嘆の中であった。

 「おのおの方、もしもあなたが奇門の伝人だとして、何も知らない人にあなたの本領を教えてくれと申されて、あなたは教えるであろうか?自分で奇門を学んだとしてもしも真伝を得ず、一生ぼう然として過ごし、すでにこのようならば中級まで学んでから停止し、基本知識を理解してから、機縁が来るのを待ち、自分に福気があれば真人に出会う事が出来る物である。但し六壬はこれとは違い、大全、指南、粋言、畢法案録、任帰などの六壬の経典を熟読し、十年変わらず攻読すれば、絶対に大いなる収穫があるであろう」。

竹川註

 劉光斌と師の書いた物にはそう出ていたが、ネットで調べると劉広斌であり、中国語の発音はおなじではある。この人は黒門の師匠である。北京市復興路におられる。劉氏奇門初中級培訓―国内学費、五千八〇〇人民幣、国外学費二千ドル。高級研修班―香港マカオその他国学費―五千ドル~六千ドル。中国大陸学費―二万六千~二万六千八〇〇。私は実に昔、この劉氏に奇門を教えた事があると言う河南省出身の人に奇門を習った。

 彼が申すに若い時に教えたのは二、三ケ月であり、昔の秘密主義の時代であり、余り教えなかったと申す。劉氏のおじいさんは奇門が出来たが、親父は出来なかった。つまり途中で途絶えたのであった。彼の妻は出来たと言っていた。私は我が師に劉氏は符呪の本を出しているが、彼は出来るのかと聞くと出来ないと答えた。私は師に「ではあなたは出来るのか」と申すと、「いや出来ない、祝由の術は出来る」と申した。
 この人の奇門では 一つの盤の中に三種類の八神 を使うのである。私の年盤を出しそれより大限の二十代、三十代、四十代、五十代と出してゆき、良くあたっていた。

 台北の南京東路で鉄板道人の師について習っていた時に、銀行勤めの翁さんと知り合った。彼は日本語がペラペラに出来た人であり、彼は師について紫微斗数を習得していた。彼の家はここからも歩いて行ける距離であった。我が師は外省人であり、その言葉は訛りがきつく、普通の台湾の人にはわかりづらかった。蒋介石が大陸より台湾にきて演説を行なったが、台湾の人達には彼が何を言っているのか、まったく聞いてわからなかったと言っていた。ちなみに台湾では北京語を標準語と申すが、これは台湾独自の南方の系統の北京語である。台北では標準語をしゃべって殆ど通じていたが、しかし南に行くにつれて、人々の話す言葉は台湾語、福建語が多い。現在ではそうではないであろう。台湾のテレビではかならず字幕がついていた。この時、翁さんがいつも翻訳をしてくれた。

 またある時彼(師の事)をいつも酒を飲みに連れて行って適当に酔いがまわってから秘伝の物を書かせた。しらふでは書いてくれない、かれは秘伝は亀の甲羅がはがせられるようで非常に嫌うのだ。そういった資料をご好意でもらったが、長く付き合っている内に彼、翁さんが交遊関係の手段として、習った紫微を人に渡していた。師が知ればカンカンに怒っていたであろう。こういう人には注意をしなければいけないと思った。

 夜に師について習っていた時、二人の人が尋ねて来た。一人は翁さんと同じく第一銀行の人で趙聞起さん、彼等は調査室の人達であり、つまり彼等の仕事の一部は国から国民党より派遺された例えば日本などの新聞を読んでいるか、どの新聞か、どんな思想を持っているかなどを調べるのであり、どの会社でもこういう人達がいるのが当時の台湾の状況であった。彼の息子は張志通より五行通臂拳を習っていた。私は当時武壇で陳家太極を習っていた。

 ある時私が武術に関心があるので張志通の書かれた通臂拳の本をいただいた。武壇では当時すでに各老師方は出国しておらず、台湾大学の学生などが来ておしえていた。あそこは世界的に有名であり、しょっちゅう、いつも外人が習いに来ていた。最初から私は陳式の老架式を習った。一か月して学生の先生がかわり別の人になり、それより本式の物を教えると申す。では今までのはと聞くと、いままでのは準備であり、最初から本式のは教えられないと申す。外人なれしている所は適当に教えておけば良い、勝手に人や金が入ってくるとそう言う考えであった。

 ある時趙氏から教わった張志通のおられる新生南路にあった自宅兼地下にある修練場に行き、張老師と知り合った。そこで私が武壇で習っている陳家老架式を表演すると、間違っている、途絶えている、とぎれていると言われた。太極では綿々不断であるのが常識である。張志通の通臂拳の中にも太極拳があり、表演なされた。又陳家の教練に発勁の事を聞くと足に力を入れろと申す。これは八極拳を主に鍛練していると言う教練の言葉であった。武壇で半年間陳家老架式を習ったが、要するに時間のムダであった。全然実用には成らない物であった。劉雲樵も一か月に一回はこられていたが、要するに集金集めであり、習っている人達には全然教えなかった。まあ、中国武術では拝師の作法があり、外車一個分位の金を払ってようやく拝師弟子となり、ようやく本物が習えるのであり、拝師をしたとしてもすぐに全部教わる事ではない。何年もかけてボチボチ教わるのである。

 張志通の所ではその時に外丹功を教えていた。これは初期の頃の型であり、その後型が少しかわっていた。その時にこの外丹功をやると張志通先生より、あなたには福気があると申された。かたわらで或る弟子達は五行通臂拳を習っていた。見れば彼等は基本功などをやっていた。趙氏は第一銀行の調査室の室長であり、彼は又占術に興味があり、それで我が師を尋ねて来たのであった。また彼には外丹功の著書があり、彼の奥さんは劉氏であり、つまりは彼の奥さんは劉伯温の子孫であった。黒門の師も劉伯温の子孫と申している。つまりは劉伯温の子孫とは数多くいるのであり、諸葛孔明公でもそうであり、孔明村と申すのがあり、そこに住んでいるのはほとんどが孔明の子孫と申す。朱元障が天下を取って皇帝となった後、彼を助け補佐した忠心達を次々と虐殺した。劉伯温もそうであり、家伝の秘書すべての秘伝書を取り上げ、そして毒薬を皇帝からの賜り物だと申して飲ませた。もしも飲まなければ一族すべて残虐されてしまうので、本人はこれが何がわかっていても飲むしかなかった。

 彼の奥さんには何回か私は会った事があり、趙氏が申すには劉氏の家には奇門遁甲は伝わっていないと申していた。私が持ってきた本の中に高橋宥明の佛仙が空中飛行している記事があり、俺はこの話しを信じると申す、なぜかと聞くと、俺は実際に坊主が山からやまへと飛んでいるのを見たからだと言っていた。彼はもともとが軍人出身であり、専門は砲術関係であったと申されていた。ソ連の大砲の長さや太さの台湾の違いとか色々説明した。彼は劉雲樵とも知り合いの関係であった。
 我が師の鉄板道人も軍人出身であり、通信兵でありモールス信号の係であり、大陸より政府と共に台湾に来られ、一九五五年春、乙未年、台北市師範大学後面蒲城街十三巷十四號にて占い館を開いた。彼は記憶力抜群の持ち主であり、一目みたたけですぐ覚えられる頭脳の持ち主であった。

 趙氏に張臂拳を習いたいのですがと申すと、それはかなりむずかしいと申す。前には息子が習った時には十年かかると言われたが、今は十五年かかると張師に言われたと憤慨しておられた。内家拳としては食鶴拳もあるのでそれを習えばどうかとも言われた。縦鶴拳を修練していた時、ある時食鶴拳をやっていたと言う後輩がいて、それならば食鶴拳の型を見せてもらったが、いかにも南拳という感じであった。彼は縦鶴拳をやって食鶴拳の技がだいぶ進歩出来たと言っていて喜んでいた。ちなみに内輪の話としてその当時の食鶴拳の当主(劉故ではない)は若い女を嫁にもらい肉をたらふくくらい、それで中風になったと彼は申していた。

 私が翁さんといる時、師の鉄板道人が一人の外省の男をつれてコピー屋にきた。それは皇極神数をコピーするためであった。当時はこの条目が出版されておらず、又師について習っていたのであろう。この男はアメリカ在住の華僑で陳と申した。後日、師はこの男を私の秘伝の皇極神数をアメリカの新聞に乗せて売り出したと怒っていた。彼等は鉄板道人の物を虎視耽々とねらっていたのであった。

わが師鉄板道人の手紙を特別に公開します。⇒ 鉄板道人の直筆書簡

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