真武蛇術(蛇使いの術)
この蛇術の歴史はとても古く、真武教と呼ばれる物であり、真武即ち真武大帝であり、北極玄天上帝と呼ばれ、日本では鎮宅霊符神と呼ばれ、盛んに拝まれていた。これは武当山の紫霄宮にて祭られているご本尊であり、その足下には亀蛇の二将を踏んでいる。
武当の紫霄宮は海内外の最大の真武道場であり、毎年の旧暦三月三日は真武祖師聖誕の日として、四方各地の善男善女、弟子等はお線香を上げに各地より集まって来る物である。
蛇術とは蛇使いの術であり、この蛇使いの御本尊が玄天上帝であり、真武教の蛇傷治療は道法が主であり、薬物(漢方薬)が輔である。弟子は随時この真武法水で治療や蛇術のパフォーマンスが出来る物である。
蛇術の真武蛇傷の技は即ち郭師であり、私はこの人より蛇術を習った。郭師は湖南省の袁州の蛇師劉日賢恩師より習い、恩師はその父である劉運松師公及びその母高蘭英師婆より伝を受け、師公師婆はその父である高美環老師公よりこの真武教を習った。
蛇師の師匠の息子はこの術を習わず、又亡くなった時に葬式にも姿を見せず、私が葬式を行なったとの事であった。都会ではこの蛇術は全然役には立たないが、しかし山に関係している仕事の人や、山近くに住んでいる人やアウトドアをしている人にとっては必要な物である。
真武法水
一、関師黙像法
二、真武法水請師呪
主治、一切蛇に噛まれた傷の重い物を問わず、すべて救治され、痛みを止め腫れを消し毒を去る。用法、お碗の中に水を入れ、関師黙像をし、真武法水講師呪を念じ、剣訣で五個の雷の字を書き入れ、三回円をえがき、三回息を吹きかけ、五雷の発声をし、この法水を口に含んで傷口に吹きかけ、余った法水は傷ついた者に呑ませる。
三、箍法、真法、格法
これはそれぞれの呪文が異なる物であり、左手は中指訣の印を結び、剣訣で左手の中に五個の雷の字を書き入れ、三回円をえがき、三回息を吹きかけ、五雷の発声をする物である。主治、腫れを消し痛みを止め毒を去るのであり、箍や真それに格の法によって行なう。
用法、蛇に手や足をかまれた時に箍の法や真の法で、両手で上より下に同時に押さえながら呪文を唱えながら行なう。格法は両手は剣訣で同時に上より下に同時に押さえながら呪文を唱えながら行なう。
四、反手薬
関師黙像をし、左手は中指訣の印を結び、右手は剣訣で真武法水講師呪を念じ、五個の雷の字を書き、三回円をえがき、三回息を吹きかけ、五雷の発声をする。手をうしろにして、そこにある草をつかむのであり、その草が即ち薬であり、もしも草がなければ地面の土でも良く、草をつかむ時には目で見てはいけなく、そして関師黙像をし、つばを吐いてその草とまぜ合わせるか、或いは口の中に入れて噛みくだき、そしてこれを傷口につけるのであり、剣訣で五雷を書き、三回円をえがき、三回息を吹きかけ、五雷の発声をする。
五、これは蛇の動きを封じ方法であり、伝書にも書かれていない
これは棍棒を使い、まず関師黙像を行ない、棍棒のその先に剣訣で五雷を書き、三回円をえがき、三回息を吹きかけ、五雷の発声をし、棍棒で地面に円をえがいて、そして右手は手のひらを下に向け押さえるようにすれば蛇は動けなくなる。
註釈
蛇を集める、呼ぶ術もあったが、師はこれは覚えきれなかったので出来ないと申されていたが、師の師匠たちは出来ていたとの事であった。
蛇の傷の症状
毒蛇にかまれた傷はおおむね神経中毒と血液中毒とに分かれる。蛇にかまれた病人は軽くか重傷とに分かれ、また有毒か無毒の蛇にかまれたとに分かれる。無毒の蛇と有毒の蛇にかまれた傷口について。蛇の傷口の色によってどの蛇の傷かを見る。
真武蛇傷薬
一、外用薬、以上十四種類の漢方薬を、符呪と配合して傷口にしけば、腫れを消し痛みを止め、毒を去る事効果てきめんである。二、内服薬、漢方薬を煎じて服用するのであり、症状に応じてそれぞれの漢方薬を適度に併せて服用する。三、薬丸、以上を粉末とし蜂蜜で丸薬とし密封して保存し傷口にあてれば良し。四、歌訣。五、大蘭薬一・二・三。
蛇術
廃墟の家、蛇群出入り、河叔公、妙法にて貧服(捕らえる)
これは台湾にて、数十年前位の話しであります。
「ハイ、ハイ、ハイ、おいでや、みんな蛇戯を見においで、早ければみんな見れるし、遅ければ見られるのは半分だけよ、ハイ、...」
日暮れ時、村の小店の前の四つ角のわき、蛇薬を売る行商人はすでに道具を皆揃えてあり、ドラを叩きながら掛け声をかけていたのであった。蛇薬の人の道具はとても簡単であり、地面に大きな布をしき、布の上には蛇肉、蛇骨、蛇スープ、蛇のキモ、蛇鞭(生殖器)…の多くの効能が書いてあり、これ以外に六十ワットの電灯を竹の棒に横に取り付けてあり、鉄のカゴの中には蛇が入れてあり、黒い布の中には毒蛇がうごめいていた。
昼仕事をして疲れた村民はドラの音を聞き、晩飯後に子供を連れて出て、足には木の履物をつけ、背中には大きなヤシを切って作った扇子を腰にはさみ、ゆっくりと蛇薬の店に向かって来るのであった。蛇薬を売る人は人の群れが来るのを見て、彼の宝物を並べ出した一つは外面が亀と同じではあるが、しかし底部はほぼ異なる亀蛇、三十センチ有余の長さの親指位の全身が青緑色の青竹絲、体全部に斑紋がある亀殻花、上半身首をかかげ上げて立っている眼鏡蛇(コブラ)、いくつかの蛇たちを一の字に布の前に並べ立てた。
売人は時々手を伸ばしてコブラの後を叩いた。打つとそれは前に蛇の舌を伸ばし、ひどく怒っていた。説によるとこの種の蛇は前だけ見て、後ろは見ない。それは振り向いて人を噛むと言う事はないのであった。子供はこの一幕が一番面白くて、ある時には手を伸ばして叩こうとするが、しかしすぐに売人に制止させられ、「お前のお母さんはまだ子供を産めると言っても、お前はふざけてはいかんぞ、噛まれでもしたら責任は取らないぞ。」
この時前にひざまづいていた一人の五十余歳の老人が、突然手を伸ばして猛毒の青竹絲をつかまえ、反対にして御腹を見て、又手でなでる事一回、その後に戻した。言うには「この尾は雌だ」売人は老人の突然の挙動に驚かされた。顔のエミは全部消え去り、大声で「おじいさん、ふざけてはだめだよ、噛まれたら死ぬんだよ」大人達は売人の驚きあわてた様子を見て、心の中で笑っており、一人が口を開いて「気にしなくていい、お前さん彼を知らないのか!彼は河叔公であり、蛇の祖宗であり、彼を噛まないぞ」
売人の顔色が真っ青になっているも、河叔公はなにも見なかったと同じ様に又手をスーツと伸ばしてコブラを手にとり「大丈夫だよ!これがなんで人を噛むのか、可愛いなあ」そういうと蛇を腕に巻き付けて、蛇と自分とを面と合わせた。しかしながらコブラは虎視眈々として彼を見つめ、かもうとする様子ではあるが、しかし噛めずにいた。
申すところ河叔公の捉蛇の歴史は、真に数え切れない程の事跡がある。彼が十五歳の時に一人の内地(大陸の事)より台湾に渡ってきた江西籍の蓑衣師父について蛇術、蛇符を習い、以後の半世は蛇との中で過ごした。ある年に川の近くの大きな竹林の廃墟の家の中から外まで、蛇公蛇孫が群れをなして出入りしており、各色各様の毒蛇がすべていた。
家の外の竹林の上下に遊蕩している蛇が、道行く人に発現された物にはコブラ、過山刀、草尾蛇、打槌蛇、臭青母、青竹絲などなど、道いく人の伝言によると、一つの蛇洞が形成されると、それらの蛇は蛇王の「鶏公蛇」の到来を待つ。
それは鶏頭蛇身で飛翔出来る「鶏公蛇」が一度いたれば、蛇洞(或いは蛇窟)が形成されて、十里以内の人や畜はすべて災難に見舞われるのである。蛇の巣窟の出没に加え、竹林の至る所で蛇の抜け殻が見られたので、信じるしか方法がなかった。
ある人の意見では軍にお願いして手榴弾で爆発させて殺すか、或る又の議論では上帝公(真武大帝)にお願いして蛇を退治してもらうとかあり、それは上帝公は亀と蛇とを降伏した事があり、捉蛇に対して技があったからである。多くの人の意見が出されたが、皆はやはり河叔公に出てもらおうと決定したのであった。
三十何才かの河叔公は蛇藝の絶技を学得はしていたが、普段は軽々しくは見せなかった。この種の大事に彼は腕自慢を支度はなかったが、皆の要求のもと、彼も辞退はしなかった。
人と蛇との大戦の日が来て、河叔公は多くの蛇の薬草を採り、スコップを持ち、何本かの長い縄を帯び、竹製の蓑(みの)を選び、村の中の何人かの大人達と共に目的地に向かって出発した。道行く時に彼は皆に廃墟の口の所で待ってくれ、蛇が出てきたら棍棒で打ち殺し、逃げたのがいたら俺が片付けるからと言った。
廃墟に到って河叔公は洞の口を大きく広げ、その他の穴がないか調べた。奇妙な事には人がいくらかの蛇が穴より急に出て行ったあと、その行く先がわからず、そこで河叔公に尋ねると彼は穴の近くの草むらを指差して、すべてそこに居ると答えた。
果たしていくらかの蛇はそこに一塊となっていた。彼等は棍棒で叩こうとしたが、河叔公に阻止され「彼はこれらは逃げない、生きたまま捕まえて帰ればいいんだ」
蛇は火攻めを恐れる物であり、家の蛇はいぶし攻めに会い、洞の口よりあふれ出してきて、河叔公はたなからボタ餅が如くに、二本、一本と蛇をつかまえてはかたわらに投げ去った。それらの蛇達は彼に調伏され、おとなしく一塊になっていた。しかし、打槌蛇が人を打つ姿勢で洞より現れた時には、おろそかにせず、慎重に手を出してつかまえた。彼が最も気がかりなのは、「鶏公蛇」ではあるが、しかし、この蛇は出現しなかった。
その日、二百五十有余の大きいものや小さい蛇どもをつかまえたのであり、村人は蛇肉、蛇スープにたっぷりとごちそうにあずかったのであり、そして河叔公がそこで見せた技、それは一手で円を描くと、蛇はその境界を越えられない妙法であった。
河叔公の蛇術は名がとどろき渡り、遠くは高雄、屏東、南投一帯の人達までもが治療に来ていた。彼の医法はとても簡単であり、竹の串で蛇にかまれた傷口を開き、檳榔をかんだ口で以て血液を吸い出してから、自分で採った草薬を飲み、そして薬をつければすべて完治していた。村の中の何人もの青年が彼について蛇術をならおうとしたが、しかしどれもかれと同じ所に眠ると、何日かして耐えきれなかった。
彼等によると、毎晩体に蛇がまとわり動くようであり、とても怖かった。何年か前、河叔公は七十五の高齢で以て世を去り、彼の一身の絶藝もこれにつれて失伝され、真に惜しむべきであった。
この蛇術に関しては実際に習ったし、又多くの秘伝書をも所持している。完全になくなった物ではない。これは真武祖師(玄天上帝とも言い、武当山にて祭られていて、日本では霊符神、北辰妙見見菩薩とも称する)がご本尊であります。
まずは真武法水を作るのより始める。用法としてはお碗の中に水を入れ、関師黙像をしてから真武法水請師呪を唱えてから円を描き、五雷発声をしてから噛まれた所に吹きかけ、その余の法水は呑ませれば、一切の蛇に噛まれた傷、どんな厳重であっても皆救治出来、痛みを止め腫れを去り毒を去る。
これの絶技として手を手のひらを上にして放てば、蛇は動かなくなり、手のひらを下にむければ、蛇はすぐに地面に倒れて棒に巻き付けて、それを解かない限りはその蛇は決して去らない。
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