渾元球
この渾元球は究極の健康法であり、内家拳を習得するのに必ず行なうべき物であり、昨今、異種格闘技に形意拳や太極拳又合気道などが、ボクシングや総合格闘技などと試合をして、みじめな敗北を味わっている。最初パンチを入れられて倒れ、そこですぐに終了となっている。現在では真の戦える武術という物がすたれているのが現状であります。
又仙の道を志す者にとってもこの渾元球は必ず行なうべき物であり、法術に於いて剣訣即ち刀印や何々の印を結び掌で以て打つ場合でも、この力が必要であります。この渾元球には段階があり、四十キロの重さならば、一つ星。五十キロならば、二つ星。六十キロならば三つ屋。七十五キロならば四つ星。九十キロならば五つ星。普通には一つ星でいいであろう。五つ星は劉師祖くらいである。
この渾元球を伝えたのは劉師祖であり、彼は一九一〇年生まれであり、渾元球は家に伝わっていた家伝の功夫であり、近代の内家拳の奇人である劉師祖は、祖籍は山東の徳州であり、かってドイツや日本に留学した経験があり、日本語に精通していた。中国が共産国になる前は、大資本家の御曹司であり、幼くしてその生活は富裕であり、その父により小さい頃より毎日練功をさせられていた。この劉師祖の事は日本では全然知られていなかった。
自然門の杜心吾や李書文、孫禄堂などと同様に強く、その実力があった人物であった。劉家は青島で大きな商いをしていたが、共産の国になってから劉家などの資本家は共産党の大きな大きな影響を受け、劉家のすべての家財を広く皆に分け与え、晩年は東北地方に隠居していた。一九八六年、約三十五年前、この国宝級の武功奇人は世を去ったが、幸いな事には彼の内家武功秘訣は世に残していたのであった。
内功は又内気とも中気とも真気とも称され、普通には元気とも称される物であり、それは無形にして無声、跡なく色なく味無し、長期の修練がなければその感覚はなく、いまだ練功していない者や初練者にとってはわけがわからず、長期の鍛練をした人のみが、その人の体質や悟性にもよるが、その感覚は一応に会得出来る物であり、この渾元球の修練のその功夫の深浅にもよるが、その感覚としてはおおむね以下の通りである。手指が発熱し膨張感があり、つかむ握カは増強し、ある時は手指の先は細かい針に刺されたような感覚があり、ある一時期以後丹田の下腹がグルグルと鳴り、ある人はオナラをし、腸内に気が動くのを感じ、それより練功をしていけばこの種の感覚もまたなくなり、再び練功を続けていけば丹田は充実するのを感じ取り、全身は気持ち良く、拳法のその型は前よりも低くなり、低い程気持ち良くなる。初めて型を行なう時に低くすれば、足はしびれふるえる物である。腰や足は丈夫になり強健となる。
以前とくらべてなぐられても平気となり、それより練功を続けていくと、体内はやすらかで穏やかなるを覚え、熱いお湯でシャワーをあびるが如く、全身の皮膚はなめらかで潤い、それより又練功していけば、全身は気に満ちた感じがあり、練功の時に骨内にツウツウなる感覚がしだし、これは骨内に気が行っているのであり、それよりまだ練功していけば全身は柔軟になり、動作の活動の幅も増大し、固い所やひっかかる所も減少し、ある時には練功の状態で感覚的に筋肉がなくなり、ただ骨のみとなり、打拳のその型も更に低くなり、伸縮の意もあり、再び練功していけば全身は軽くなり、ずっきりと重く満ち、手足は重厚で重く、又軽く柔順である。
継続して精進していけば、ある時に下腹が熱くなり、夜に寝ている時に会陰穴が動くのが感じられ、何日か動かなく又急に動いたりし、昼間練功していない暇な時に背中が熱くなったり、ある時は後腰の所や、或る時は爽背の所であり、手で皮膚をさわっても熱くなく、この時手を打ち出す時は更に順達であり、迅疾なるその中に水銀が出る感じがあり、重厚で重さがあり、継続して精進すれば体に一種の爆裂する勁力がつき、心が思えぱ動くのであり、手でどこにあてようかと思っただけですでにそこにあてているのであり、手を出す事曲がった鋼の板が突然反弾して出る感じであり、それよりまた練功を続けてゆけば、手腕や全身の骨格は鉄のようであり、ぶちあてても恐れず、勢い良く打ち出せば更にすっしりと重くなっており、それは柳の枝を軽くひと払いすれぱビューと破空の声がするのと同じあり、この段階の前後肩の関節は自然と脱臼するのであり、これは内功を練り初級より中級に到った段階である。
しかし現在に於いて練武の人で肩の関節が自然脱臼出来る人はすでに非常に少ない。内功の高級段階は申しようもないが、ただ劉師祖の全身の関節は皆脱臼し、どんな擒拿や関節技は彼にとってはきかず、どんな関節技を繰り出しても返ってその害を受ける物であった。全身は鉄の如く、軽き事羽の如く、敏捷成る事雷の如しであった。
彼は見た目はやせた老人ではあるが、その力は大で無窮、夜間に物を見、軽功で壁を超え、重きを挙げる事軽々と、金剛の体、神力は千斤、柔なる事骨がないようで、鉄棒で頭をなぐられても平気であり、両手にて重さ百キロの重さの物を持ち上げて連続して四往復するも呼吸は乱れず、七十多歳の高齢にして人の頭の上を飛び越えて地面に落ちた時にはその音がしなかった。
第二次大戦の時、一機の飛行機が燃料ぎれで荒野に降りようとした時、地形を観察してみた時、一つの大熊が向かってきた。この人は身をかえて飛行機に向かって走り出し、ぽーんと跳ねた。飛んだのは三メートル以上ある高さの翼の上であり、これはオリンピックの記録よりも遠くぬきんでているものである。彼は一メートル七十六センチ、体重は六十キロであった。又彼は助走もせずに前に飛び上がる事十メートル、足が着くやそのままもとの所に戻って来た。立って暇な時、彼は片足をあげて首につけ、もう片足だけで体重を支えて、人々と話をしていて、全然苦しいという感じはしなかった。ヨガでも座ってこの格好をする人はいるであろう。
劉師祖には三本の鉄棒があり、彼は杵としょうする。小さいのは十五キロで、八センチの位の厚さで長さは三十センチ多はあり、中なのは三十キロ、長さは六十何センチ、 大なのは四十五キロで、長さは一メートル多。晩年には彼は常に小を使い鍛練をして振り回していた。ビューウビューウと響き渡る空を切る音のすごい事、その動作ははっきりとは見えなかった程であった。
この渾元球の修練を積めばプロボクシングや又柔道、プロレス、重量挙げや、跳びはねる、円盤投げなどのオリンピックの試合にてメダルを取れるであろう。
この渾元球の内功揉球はバーベルなどを使って発生する力とは根本的に異なる物であり、この全体の筋骨で出来た勁力は真正の意義があり、その震撼性がある。力がある人で百三十キロのバーベルを挙げる人や、両手に各百五十キロの重物を上げる事の出来る人がいたが、三十キロの石球をみた時、あなどっていたが、触れてからわかり、彼等はただ石球を抱き抱える事が出来たが、しかしそれを前に伸ばしたりは出来ず、その他揉球の動作は出来なかった。彼等と力比べをする事になり、相手の腕どうしを組み、相手を押すのであるが、勁力を全身にめぐらせば彼等は根本的に動かせる事は出来なかった。